『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

分れた出雲の系譜と饒速日命の妻と子供たち①前説

阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)=事代主の役職につく

 

事代主神とは=大物主大神である

 

事代主の妹とは=高照姫といわれる

 

事代主の妃は=高照姫とされる

 

阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)も事代主も「妹」と婚姻関係があることもあり、諸説あるように筆者としても同一としてみている。

 

妹との禁断の婚姻関係がみられるとされるのは、阿遅鉏高日子根神をはじめ、事代主、そして、天照大御神素戔嗚尊との誓約・宇気比(うけい)に関してもイコール、兄妹または姉弟姻の意味合いであるともみえる。

 

誓約・宇気比(うけい)とは実際には?

 

現代とは異なり、古代は人口も少ない。「血統の始まり」となる為に「DNA/血統を継ぐために」でこういった近親婚的な形態も多少はあったのかとは思う。そこから段々と人々が増え、子孫が増え、枝分かれしたから現在の様に近親交配はしないでもよくなってる。できれば、DNAが健やかに続く為にはしない方が良い事だとも思う。

 

初代より、徐々に、成立していった各氏族が、それぞれの氏族同士の婚姻を「和合」などの意味合いをもって、家族をそれぞれにも築いていったと考えてはいる。けれど、出所は同じにはなるものだ。われわれは人類皆兄弟というが、物理的には、そのように筆者は考えたりする。交配を行い、子孫は繁栄するからである。これは何ら、批判的な意見ではないとも思っている。

 

日本は祖霊を祀り、氏神を祀り、信仰する。日本の神々は八百万であり、世の中のどの信仰の神々よりも日本の神は人に近いのだと思う。だからこそ、われわれは『神仏習合』にも柔軟に対応ができたと思う。日本はもともと祖霊を大切に祀り、氏神を信じ、アミニズムから万物に神が宿り、他者を受け入れて取り入れていく精神性があった。

 

 

さて、前置きや補足が長くなったが、話を戻す。

 

 

阿遅鉏高日子根神の妹=下照姫(したてるひめ)

 

饒速日大年神(おおとしのかみ)

 

大年神(おおとしのかみ)の妃=下照姫

 

事代主の妃=高照光姫(たかてるひめ)

 

下照姫が子を持ち高照姫になったともいわれる

 

 

元出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)の妹とされる下照姫(したてるひめ)は、同じく元出雲の大年神(おおとしのかみ)=饒速日尊の妃になったとはされる。

 

饒速日尊とは、事代主同様に役職名とされ、本名がやはり大年神(おおとしのかみ)とみられる。『古事記素戔嗚尊神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の御子が大年神(おおとしのかみ)とされる。(大歳は別の意味合いあり)

 

大年神(おおとしのかみ)の妹には秦氏氏神ともされる 宇迦之御魂神(うかのみたま)がみられる。これにより神大市比売(かむおおいちひめ)には猶太、イスラエルとの関わりが説かれる。神大市比売(かむおほいちひめ)じたい、大山津見神の娘神であり秦氏が関係するとされる。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の妻になる櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)の親、足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)の親神も大山津見神(おおやまづみ)である。また、  伊邪那岐命(いざなぎのみこと、伊弉諾尊)と伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉弥)の間の子が大山津見(おおやまつみ)である。

 

饒速日尊は『日本書紀』上では天孫族瓊瓊杵尊ニニギノミコト)の兄と描かれてはいる。『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と呼ばれており、天火明命アメノホアカリ)と同一の神とする。

 

新撰姓氏録』においての饒速日は、天神(高天原出身、皇統ではない)である。天火明命アメノホアカリ)とは天孫天照大神の孫)と呼ばれる。この天火明命アメノホアカリ)は、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと、天忍穗耳命)と栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)の御子である。

 

すなわち、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと、天忍穗耳命)と、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、イコール、萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)の御子神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)=饒速日尊(にぎはやひのみこと)という。

 

天皇の祖、天照大御神の孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の兄が饒速日尊(にぎはやひのみこと)で、天火明命アメノホアカリ)である。父神は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊という。

 

このように、饒速日天火明命というが、実は、筆者は両者を『別』と考えていたりもする。

 

実際はどうなのだろうか。

 

饒速日尊には、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)より以前に天降った説があり、『先代旧事本紀』巻第三天神本紀には、高皇産霊尊からの「防衛(ふせぎまもり)」として三十二柱の随伴させた神があるとされる。この三十二柱はのちに記事にする。

 

三十二柱のうちの人柱が、当家の血筋である卜部氏(うらべ)の祖とされる。 天月神命(あめのつきのみたまのみこと)は、卜部氏(うらべ)のうちの伊岐・壱岐卜部の祖とされている。卜部の祖は実は、『対馬信仰の神』である。記紀成立以前に、対馬に信じられた神だ。

 

尾張連や津守連の祖の天村雲命(あめのむらくものみこと)の父神の高倉下(タカクラジ)もこの三十二柱のうちの一柱である。饒速日は天降った際には天磐船に乗って磐船神社大阪府)に降りたったとされる。しかし、饒速日降臨地は別の場所である事も数々諸説される。

 

 

 

阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)

 

國學院データベースによると、この神名のアヂは可美(ウマシ)の意の美称、スキは鉏、タカヒコネは敬称、農具を神格化した名という。






出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、同じく元出雲の大年神(おおとしのかみ)、すなわちヤマトを制した饒速日尊(にぎはやひのみこと)に妹下照姫(したてるひめ)を娶らせ大物主神(おおものぬしのかみ)となったという。

 

出雲の大年神(おおとしのかみ)も素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜であるがヤマトを制して饒速日尊と呼ばれた。下照姫は「大歳=饒速日」に嫁いだ事となる。

 

下照姫は素戔嗚尊の系譜「大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命を娶して生める子は阿遅鉏高日子根神。次に妹高比売命。亦の名は下光比売命」とある。

 

 天若日子神話には「下照比売」とある。天の神を下へと下らせるほど魅力的な意味をこめて「天(あま)さかる~」と呼ばれたともされている。

 

売許曽神という神があるが『古事記』で阿加流比売神(あかるひめかみ)と記され、天之日矛(あまひぼこ)の妻であった。夫に罵られ逃げ渡り比売許曽神社に鎮座したともされる。

 

この阿加流比売神(あかるひめかみ)が下照姫と同一とされたりもする。比売許曽神を太陽神の妻と捉え、別名下照比売の名の意と通じるものがあるとも解されているという。

 

一説で、御歳神(みとしのかみ)をもうけた。一説に、子をもうけて「高照姫」となったとされる。下照姫の考察はまた別の機会にもうけたいと思う。



出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、父は大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、大国主命素戔嗚尊の系譜である。ある日、妹下照姫(したてるひめ)の元夫、天津神系譜の天若日子(あめのわかひこ、天稚彦)の葬儀の時に出雲から姿を消した。

 

阿遅鉏高日子根神は妹下照姫(したてるひめ)を連れてヤマトへ向かったようだ。そこで出雲を出てヤマトを制していた大年神(おおとしのかみ)饒速日尊に近づき、妹下照姫(したてるひめ)と婚姻をさせた。そして、自らは玉依姫(たまよりひめ)に近づいた。

 

このは、玉依姫命とは、『日本書紀』第9段第7のみに登場し「高皇産霊尊の娘万幡姫の娘。天忍骨命の妃で、天之杵火々置瀬尊の母。」とされる。『日向神話』では海童の娘とされ、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の妻で、神武天皇の母である。

 

玉依姫玉櫛媛とも記され、三島溝橛耳神(陶津耳)の娘、事代主神大物主大神)の妻、媛蹈鞴五十鈴媛命神武天皇の皇后)の母ともされる。つまり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の亡き後に阿遅鉏高日子根神が近づき、婚姻している。

 

ちなみに、神武天皇の本名は、若御毛沼(わかみけぬ)命である。始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、のちに「神武天皇(じんむてんのう)」と諡された。神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)とも呼ばれる。



出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)とは、出雲を出てからは「政略結婚」を行った。妹下照姫(したてるひめ)を大歳=饒速日尊に嫁がせ、その上に、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の亡き後に妻と婚姻し、神武天皇の父となっている。

 

そこで八咫烏(やたがらす)が生まれた。出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、迦毛大御神(かものおおみかみ)とされ、最上神「大御神(おおみかみ)」賀茂氏の祖とされる。同時に大物主神(おおものぬしのかみ)三輪氏・賀茂氏の祖とされる。

 

阿遅鉏高日子根神は、出雲を出て、ヤマトに近づき、ヤマトと和合する様に見せかけ、神武天皇側へ力を貸した。そして、あくまで『記紀』神話上ではあるが、最大の謎(筆者的に)が、元出雲・神武側についたのは阿遅鉏高日子根神と、大年神饒速日自身でもある事だ。

 

記紀』上に、この時に討伐対象・敵役になっているのはヤマト元王の長髄彦ながすねひこである。じつのところ、大歳=饒速日尊は、この時にはもう亡くなっていたともされる。しかし『記紀』上は、饒速日尊は神武に国譲りし、抵抗した長髄彦を斬ったとされる。

 

どちらにしても、この神武天皇の国取りの際の討伐対象・敵役はヤマト元王の長髄彦ながすねひことなった。ここで、もう一つの興味深いの点は、富の長髄彦(ながすねひこ)も元出雲であり、妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、登美夜毘売)を大歳=饒速日に娶らせている。

 

さらに、補足すると、

 

つまりは、神武天皇のヤマトへ国取りにきたこの記紀神話に関しては、神武天皇側と阿遅鉏高日子根神(八咫烏)、そして、長髄彦の対立がみえるが、それは、神武天皇と、大年神饒速日の系譜にある末裔たちの「後継争い」にも見える。

 

しかし、同父と三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、登美夜毘売)の御子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと、物部の祖)や、同父と天道日女命の御子の高倉下(天村雲命・尾張の祖)は神武天皇側についた立ち位置にはなっている。

 

長髄彦(ながすねひこ)のみが神武天皇下につくことを拒んだが、彼が守っていたのは、誰であったか。神武天皇、阿遅鉏高日子根神(八咫烏賀茂氏)、宇摩志麻遅命物部氏)、高倉下(尾張氏)などは神武側についたが長髄彦は抵抗した側である。

 

誰を守っていたのか?

 

それは、大歳=饒速日尊が、かぐよ姫(香具夜姫)ともうけた娘「かぐや姫」を守るためであったとされる。そして、ヤマト元王の長髄彦(ながすねひこ)は東北へ逃れていったともされていたりする。今後この深い考察を行う。




この話からは、不思議に思っている点が多々ある。

 

・事代主=阿遅鉏高日子根神

・事代主の妃は妹高照光姫(タカテルヒメ)

・事代主の父は恵比寿大神と云われる

・阿遅鉏高日子根神は妹下照姫を饒速日に娶らせた

長髄彦ながすねひこ)も妹三炊屋媛を饒速日に娶らせた

長髄彦妹三炊屋媛の父も恵比寿大神と云われる

・阿遅鉏高日子根神はアヂは可美(ウマシ)スキは鉏、タカヒコネは敬称

長髄彦の妹三炊屋媛と饒速日尊の御子は別名 可美真手命(ウマシマジ

・出雲の役職の事代主は出雲でなく三輪山大物主神となった(三輪氏・賀茂氏の祖)

可美真手命は長髄彦ではなく神武天皇側についた物部連と穂積氏らの祖

高倉下は同じく饒速日とされる火明命の御子、尾張氏の祖、神武側

・しかしながら、高倉下以下末裔、天香山命饒速日に従い天降った32柱の神であった

尾張氏不比等不比等末裔と婚姻し外戚から藤原氏となり中臣氏や藤原氏の祖神を祀る

・中臣氏が藤原氏になったのでなく不比等末裔のみ藤原氏になり、外戚尾張氏と藤原姓を名乗る

長髄彦は安日彦と「かぐや姫」と東北へ逃げ延び、荒脛巾(あらはばき)族となったとされる

長髄彦の兄安日彦(あびひこ)は記紀に記されず消されている、古くには鬼王安日王

・『古事記』に上記(ウエツフミ)の歴史が変えられ『日本書紀』に『古事記』が変えられた

 

結論的に言うと、今必要なのは『長髄彦』の考察であるのに、ずっと「海の民」「水の時代」などと、別の話ばかりに世間が大盛り上がりしている。

 

水、水、それによって大事なことがかき消されている。火の国、火の信仰が蝦夷であり、夷(えびす)であり、火の子供が水である。

 

そして、剣先から滴った血から生まれたのが水の神であると忘れている。

 

ゆえに、筆者は世間とは別の視点で考察を続けていこうと思っている。