『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

古代日本列島の〚姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制〛~基礎

姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制とは

 

姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」

 

それは古代日本の「祭祀女王(ヒメ)と政務王(ヒコ)」の制度である。

 

弥生時代後期~古墳時代前期(紀元前1世紀から紀元後4世紀)にかけて日本列島各地で成立していたと思われる「(男女別の)共立的統治形態」を指すと把握している。

主に「農耕的」なものにまつわる「女子」の集団の長(頭首・リーダー)を『ヒメ』とされており、一方では、「軍事的」な面に関してまつわる「男子」の集団の長(頭首・リーダー)を『ヒコ』とされたと考えられており、【姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制】=「共立的統治形態」が唱えられた。

 

当初のこの姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」の概念は、1938年に、高群 逸枝(たかむれ いつえ、本名:イツエ、1894年(明治27年)1月18日 - 1964年(昭和39年)6月7日)熊本県出身の日本の詩人・民俗学者・日本の「女性史学」の創設者によって初めて唱えられたとされる。女性史研究、母系制の研究、招婿婚の研究などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した人物である。

高松氏によると「古代の祭治形式にあつては、神宣を体する”姫”の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二職を主長とする制度が生じたのである」。「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」。

 

高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、69, 362ページ、参照 倉塚曄子『巫女の文化』(平凡社1979)

 

筆者の見る限りだけでは、いつも参考にする「国学院大学」のデータベースには姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」についてのデータがなく、同大学、宮内庁などはこれについてどのような見解があったりするのか?など、直接聞きたいと思ったりしている。しかしながら、この「姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制」・「共立的統治形態」が古代の日本列島にはあった主張に関しては各種「口伝・家伝・風土記」などで多くに言及されているのは多々見受けてはいる。

 

また、だいたいに伝え聞くところは男女がセット竹内文献でもそうであり)、または「王と副王・二王制度」(古代出雲口伝などをはじめに)があったのはわかる。また、邪馬台国卑弥呼の兄弟(男女)の制度もこれにあたり、必ずしも「配偶者」でもなく「血縁紐帯」を基軸にしており、同母の兄弟や姉妹は特に繋がりが強いと考えられたからと云われる。姉妹は兄弟を守護する霊的力があると信仰された沖縄県のおなり信仰など)事などがこれに繋がるそうである。

 

この辺りについては今現在『公式(表立って)』での説明は無いようだが、姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」の説を信頼する人々は少なくない。それは地元や末裔、家伝・口伝・社説で伝聞されてきた事での根幹となっていたりする。

 

筆者が簡単にだが調べてみたところ、『 旧皇室典範(旧典範)』によっての「制定前」の制度では、天皇とは、「男子であることの要件はなく、女子にも皇位継承資格があり、古代に 8 代 6 人、近世に 2 人の女性天皇が在位」という記載皇室典範にみられた。そして、近い世代の女性天皇というはいずれも我が子「皇子」に天皇という地位の「譲位すること(つなぎ)」を前提にして践祚(せんそ)したという事が古代史研究家で推論されている。

 

例えば、皇極(斉明)極天皇がその一人とされる。第35代皇極天皇(在位642~645)は、推古天皇の1代をとばして再度即位した、第37代斉明天皇(在位655~661)でもある(二回即位することを「重祚(ちょうそ)」という)。つまり、この女性天皇とは、舒明天皇の皇后であり、天智天皇・間人皇女・天武天皇の母である。この近代の女性天皇という意味合いに比べ、沖縄のおなり信仰および邪馬台国伝承では女性天皇がむしろ中心である「シャーマニズム(巫女制度)」の考え方が見られると思う。

 

冒頭に述べた通りに、古代日本では、祭祀的・農耕従事などをする姫・ヒメ(ミコ、トベ)と、軍事的な戦争等での従事をする彦・ヒコ(タケル、ワケ、ネ)という、姫彦統治(ヒメ・ヒコ)=「共立的統治」が行われていた。言葉を変えると「分業的(職を分掌される)」にで、ぞれぞれの「一対」が「一定の地域ごと」に国々を統治していた様に考えられている。ゆえに、上古日本列島(未だ、現在の国号「日本」になる以前の上古日本)では、それぞれの地域を統治してきた【八百万の神】が一か所「古代出雲」のあった場所に集まり「神在り月・神無し月」があったりすると考えられている

 

さらに、古い歴史をたどれば、モーゼの水玉、五色神面が奉斎される「幣立神宮の五色神祭:世界の神々が集まり人類の幸福、世界の平和を祈る儀式」熊本県山都(やまと)町にある幣立(へいたて)神宮にはあり、同社社説・御由緒には「幣立神宮は民族の起こりであった」とされている。熊本・弊立神宮の「主祭神は神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)で、天照大御神阿蘇十二神をはじめとした複数の神々」が祀られている。

 

これらの小さな国々での「共生(分割統治)」を『諸外国に打ち勝てるために1つにまとめる』という大儀上に、天皇家の東征・平定がなされ、小さな国々が1つになされたという認識をする。


・祭祀的・農耕従事などをする姫・ヒメ(ミコ、トベ)
・軍事的な戦争等での従事をする彦・ヒコ(タケル、ワケ、ネ)

 

故に、古代には、ミコ=トベであり、タケル・ワケ・ネのつくものもそうだが、大和王朝以前の「称号」を神名・名に残されている事が考えられる。ヤマトタケル日本武尊/倭建命/小碓尊)が東征を行って倒したのは熊曾建(くまそたける、熊曾建、猛/梟帥、八十梟帥/やそたける、曾は曾の旧。弟に川上健/かわかみたける河伯梟帥)の兄弟であったり、古代出雲にはフルネ兄弟もみられる。

 

この熊曾/熊曾という熊曾建が「肥後国(現熊本県)の球磨(くま)」+「大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)」を治めたのが由来とする国々でも〚共立統治形態〛があり、当の日本最古である熊本の幣立神宮の御祭神の形態にもそれが現れる。再度の記述になるが、熊本・弊立神宮の「主祭神神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)で、天照大御神阿蘇十二神をはじめとした複数の神々でもある。


姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」については、例えば、地域別に表してみると①宇佐地方(古事記には神倭伊波禮毘古命と伊呂兄五瀬命の来訪時に「豊国の宇沙」の土着の民と表現されている)には宇沙津比古(うさつひこ)と宇沙津比賣(うさつひめ)、②阿蘇地方(アイヌ語の「火を吐く山」とされ、肥後国風土記には肥後の国、閼宗:アソの県:さと)には阿蘇津彦(アソツヒコ)・阿蘇津姫(アソツヒメ)、③若狭地方(延喜式若狭国一の宮に二神を祀る神社、二神は当初「白石の里」に降臨、創祀の社は白石神社)には若狭彦(ワカサヒコ)・若狭姫(ワカサヒメ)があり、

 

続いて、④相模地方(寒川神社の祭神である二神、讃岐のほうでは「イワナガ姫」と共に祀られるも記紀には登場しない神々)寒川比古命(サムカワヒコ)・寒川比女命(サムカワヒメ)、⑤大和地方( 延喜式、竜田比古竜田比女神社の祭神となる二神。)には竜田比古(「風神」のタッタヒコ)・ 竜田比女(タッタヒメ)、⑥伊賀地方(「伊賀国風土記逸文伊賀国の名前は伊賀津姫に由来する事が述べられ、崇神天皇の皇女イガヒメは、イガツヒメとの関係が指摘される)には伊賀津彦(イガツヒコ)と 伊賀津姫(イガツヒメ)、⑦紀国(天道根命を初代國造五代目、日本書紀や和歌山伝承にて神武東征と戦った)には名草彥(なぐさひこ)・名草戸詳(なぐさとべ 、紀元前663年6月、女性)

 

続いて、⑧芸都(きつ)地方(常陸国、『常陸国風土記』にある「芸都(きつ)の里」、)には芸都彦(キツビコ)・芸都姫(キツビメ)、正確には寸津ヒ古(キツヒコ、ヒは田へんに比)・寸津ヒ売(キツヒメ、ヒは田へんに比)と思われる。芸都彦では出てこない。こちらについて詳細を示すと、地元伝承にては、都知久母(ツチクモ、土蜘蛛、穴倉に住まう土雲)または夜都賀波岐(ヤツカハギ)、その国巣(クニス、国栖)である、山の佐伯、野の佐伯とされる。国栖(くにす)の情報は国学院データベースにもあるので参照を是非頂きたい。こちらがリンク。

https://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=3195

 

筆者の個人的な考えには、国学院大学データベースでも「万葉集の研究上」にどうしてもこの「国栖」=「栗栖」に触れなければいけない話題にはなっているところなので、同大学のデータベースにヒメヒコ制の説明がないが、国栖についての説明の記載はあるのだと思われる。

 

この様に「男女」が土着の長(頭首・リーダー)となり治めてきたという話題で出てくる「ヒメヒコ」達は上記が例なのだが、1つ、確か下記の重要な「女神」「ミコ」(女性)にも配偶した男長がいた気がするが、対になる男神・統治王が誰なのかを明確に公式に調べられないという点がある。一旦、誰のことなのかを書く。

 

豊徵入姫八咫鏡を宮中から出す)。記紀によれば第10代崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖;みまきいりひこいにえ、御肇国天皇;はつくにしらすすめらみこと)と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ、遠津年魚目目微比売)との〚皇女〛がこの豊徵入姫であるが、豊鍬入姫命と倭姫命伊勢神宮斎宮の起源に求められる。しかし、何の制度上かで「最初の斎宮は天武皇女の大来皇女」とはされているという謎もある。

 

同母兄に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと、豊木入日子命、上毛野氏および下毛野氏の祖、『日本書紀』「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』「豊木入日子命」)がある。この「トヨ」とされる皇女は「ミコ」でもあるが、共に、もしかすると「祭祀女王(ヒメ)」と「政務王(ヒコ)」としてもう一人の男王となる人物がいたとは思われるが、それは、同母兄の豊城入彦命(豊木入日子命)という名で説明はなかった様な気がする。(それは豊鍬入姫命と倭姫命伊勢神宮の「斎宮」の起源に求められるからかもしれない。)

 

そもそも「ミマキ」は「ヒミコ(卑弥呼、日巫女)」という祭祀王、巫女の王の対(弟)であるとも邪馬台国伝承からは思われるのであるが、これによって、崇神天皇の和風の諡号には再三に注視なされる。第十代天皇崇神の和風諡号「みまきいりひこ」であり、実は、妃には、御間城姫(みまきひめ、孝元天皇皇孫。父は”大彦命”;ナガスネヒコも大彦。垂仁天皇彦五十狭茅命、国方姫命、千千衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命の母とされる。)である。

 

もしも、だが、ミマキがヒミコの弟であり、その配偶者はミマキヒメという大彦命の娘=『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ、先代舊事本紀)などに出てくる「長髄彦(ながすねひこ)」の娘となる場合に、かつての大和を治めた長髄彦(ながすねひこ)の娘が、第十代天皇崇神の和風諡号「みまきいりひこ」の后?という疑問にさしあたった事がある。そもそもで、その疑問(ミマキヒメの存在)がぬぐえてはいない。

 

そして、御子の中の第十一代垂仁天皇の和風諡号「いくめいりひこ、いくめ」である。イクメの妃はあの  〚 狭穂姫命(開化天皇皇孫)〛と、〚日葉酢媛命(同じく開化天皇皇曾孫)〛であるつまり、「姉妹」である。日葉酢媛命の御子は景行天皇(妃は播磨稲日大郎姫/孝霊天皇皇孫、八坂入媛命/崇神天皇皇孫)である。筆者の注視しているのは、この〚狭穂姫命(さほびめのみこと、開化天皇皇孫)〛との御子は誉津別命(ほむつわけのみこと)でのほうで、同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物であった事である。

 

狭穂姫命(さほびめのみこと、開化天皇皇孫)同母兄の狭穂彦王(沙本毘古)に夫の垂仁天皇を殺害する様に言われるも、御子を身ごもっているのもあって、それが出来ず、結局的に同母兄の狭穂彦王(沙本毘古)を選んで郷に帰ってしまう。そして、反逆を起こした事から垂仁に訴追され、稲城で親族もろとも焼かれる火中でその御子が生まれたという事ではある。火中に焼かれながら御子を産むのはイザナミもそうであり、コノハナサクヤもそうであった。兄妹、これにしても伝承が多い。

 

(また、「ヒミコとミマキ」もそうだが「ナシメ」という老人・人物もいるようだ。まるで長髄彦/ながすねひこや、武内宿禰/たけしのうちすくね、などのイメージではある。)

 

アジスキタカヒコネとシタテルヒメにしてもそうだった。そもそも日本の伝承は「事実に基づいた伝承の繰り返し」と「時系列」がバラバラに思えたりする点がある。そして、もともとにある伝承を繰り返している様にも思われる。

 

この城にて焼け滅んでしまったとされる狭穂姫命(さほひめのみこと、開化天皇皇孫、日子坐王の女、皇子誉津別命・ほむつわけのみこと/本牟智和気御子の生母)の御子は「品牟津和気命(ほむちわけのみこと)」とされ、『尾張国風土記逸文品津別皇子と表記される。また、通常は、応神天皇誉田別命とされる。

 

我々は、熊曾/熊曾(熊曾建が「肥後国(現熊本県)の球磨(くま)」+「大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)」を治めたのが由来)の民であり、同時に秦氏一門であるのだが、秦氏はもともと「品部」と呼ばれた「文化伝来」を行った民であり、供造/とものみやつこ、側近でもあった。さらには、われわれは秦一門だが「卜部氏(うらべし、吉備地方出自)」と申し、「トベ(姫方)」を表した「トベ=卜部」という伝承が当家にある。

 

何故これをはさんで書いたのかは、応神天皇誉田別尊)は「百済経由の秦氏」を大切にしたからであり、吉備の王であるからである。

 

応神天皇誉田別尊を君主とすることを認めなかったというのは、異母兄の麛坂王・忍熊王とされ、それについては皇后と武内宿禰に平定されたと云われる。皇太后となった母が摂政をとり、その後に応神天皇誉田別尊は三歳(四歳)で太子となったとされている。この母というのは一般認識には、神功皇后とはなされる。

 

先述しているのだが、再度、

 

尾張国風土記逸文で品津別皇子は垂仁天皇の第一皇子、母は皇后である狭穂毘売命(さほびめのみこと、日子坐王の女とされている)。上宮記』の逸文継体天皇の先祖=応神天皇誉田別命)とされる人物に「凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)」の名がある。狭穂毘売命(さほびめのみこと)とは、日子坐王の女とされている。謎が謎に繋がる謎でもある。

そして、神功皇后神話はあくまで「神話(架空)」とされる説も根強い。

 

父は大彦命である御間城姫(みまきひめ)からの血筋も重要ではある。

 

ja.wikipedia.org

 

これについてはまた今後に追記する。

 

その他、豊玉姫「姉」と彦火火出見存(山幸彦)「弟」玉依姫「妹」と鶏草真不合命(神武天皇の父とされる)、そして、比売多多良伊須気余理比売神武天皇「ヒメ(ミコ)」と「ヒコ」が対になっている様には思われるし、倭迹迹日百襲姬命も「ミコ」であり大物主神(神格化された神だが)の妻となってはある。そしてこのについては考察する意味が非常にある。

百済初代王温祚王(おんそおう)と百済王温羅(うら)について

百済初代王温祚王(おんそおう、在位: 前18年 - 後28年)について。

 

百済初代王温祚王(おんそおう)は、源流を扶余(ふよ)に求める神話がある、氏は扶余または余。百済初代王温祚王(おんそおう、在位: 前18年 - 後28年)は、兄の沸流(ふっりゅう)が海岸に住み、弟の温祚(おんそ)は、負児岳(ふじたけ)の山側の河南に住んだ。

 

兄が「海側」に住むと海からの災害があり住みにくく、弟の「山側」では安泰であった。沸流(ふっりゅう)は自らの判断を恥じて、自決し、弟の温祚(おんそ)へ一族が合流した。(このくだりが日本神話の「海幸・山幸彦」の伝承とそっくりである


この兄弟らの父は高句麗(コグリョ)の王の鄒牟(すむ)、あるいは朱蒙(しゅもう、チュモン)とされ、諡(おくりな)は東明聖王(トンミョンソンワン)とされる。つまり、おくりな的に東明聖王はイコールで朱蒙なのである。wiki高句麗高句麗の簡単な歴史、まとめて頂いているようなのでリンクを貼り付けよう。

 

ja.wikipedia.org

 

””の部分はwikiの説明。

 

高句麗(こうくり、コグリョ、朝鮮語고구려紀元前1世紀頃 - 668年)または高麗(こま、こうらい、コリョ朝鮮語고려)は現在の大韓民国朝鮮民主主義人民共和国北部から満洲の南部にかけての地域に存在した国家。最盛期には朝鮮半島の大部分、中国東北部南部、ロシア沿海地方方の一部を支配した。朝鮮史の枠組みでは同時期に朝鮮半島南部に存在した百済新羅とともに朝鮮の三国時代を形成した一国とされる。

三国史記』の伝説によれば、初代王の朱蒙東明聖王)が紀元前37年高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。の支配から自立し、3世紀以降、魏晋南北朝時代の中国歴代王朝や夫余(扶余)、靺鞨百済新羅など周辺諸国と攻防を繰り広げ、5世紀には最盛期を迎えた。

高句麗東アジアで大きな影響力をもったが、589年に中国が統一され南北朝時代が終焉を迎えると、統一王朝のから繰り返し攻撃を受けた。高句麗は長らくこれに耐えたが、660年には百済が唐に滅ぼされ、新羅も唐と結んだことで南北から挟まれた。そして国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃によって668年に滅ぼされ、唐に吸収されて安東都護府が設置された。-wiki

 

ここから筆者のまとめと追記。

 

三国時代を形成した一国が「高句麗」であり、高句麗の建国は「漢からの支配からの自立」の為である。よって、初代王の朱蒙東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建国したとされるがここより「古い」という可能性が含まれるとみられる。これは後述するが、「仏教が伝来した時期・公来した時期」と同じような事である。

 

日本では聖王といえば日本に仏教公伝(ぶっきょうこうでん)を進めた人物とは教科書にでてくるが、このところのかかわりはのちに取り上げようと思う。すなわちは、初代王の朱蒙東明聖王)が紀元前37年に「高句麗を建国した王」であり、その皇子らが「百済を建国」しているので、同族が朝鮮半島の当時の国々を制したとみられる。

 

上代の日本に6世紀半ばである欽明天皇期〚百済の聖王〛から古代日本(大和朝廷)への「仏教公伝」(国教)として認める(公)事を求めたことを指す(蘇我氏と共に)これも一般的には「仏教伝来」とされるも、仏教は6世紀以前より上古日本に既に渡っているのは明らかなので「区別」のために公伝・伝来」は分けて表現する。

 

これと同じであり、朱蒙高句麗を建国したとされる時期(紀元前37年以上前)からこの一族はその一帯にいたという事となるし、上代の日本にも6世紀半ば以前に「仏教」についてにしてももうすでに思想的に伝来をしていた。これを公式に「公来」させるように動いたという歴史事項が欽明天皇の御代ごろであるだけという事となる。上代日本には国交がある中で百済王も沢山日本列島に渡ってきていた白村江の戦い以前から)。

 

日本列島国内では、「物部氏蘇我氏」によっての<崇仏論争>があった。崇仏論争は「552年」とされ、百済聖明王からの「仏教公伝」を受けて、仏教信仰の推進派の蘇我稲目と、仏教排除派の物部尾輿が対立していったという内容にはなっており、われわれ日本人達は「百済聖明王(または聖王)」から仏教が持ち込まれたと習う。

 

しかし、

 

この血筋、朱蒙高句麗の初代の東明聖王)の一族が「漢の支配からの自立」の為に高句麗を建国して「朱蒙が東の聖王」となり、末子が高句麗王を継ぐ。そして、そのほかの皇子らが「百済」に辿り着き百済を建国(百済の王)している。

 

東明聖王は、高句麗の初代とされる王であり、東明王とも呼ばれる。『三国史記高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)または鄒牟(すむ)、衆解とされる。『三国史記新羅本紀・文武王紀では中牟王、『日本書紀天智天皇紀では仲牟王と書かれている。-wiki

 

world.kbs.co.kr

 

好太王碑文」には鄒牟(すむ)王は「天帝の子、母は河伯(かわのかみ)の女郎(むすめ)」という話がある。すなわち、これは以下の様な話だ。つまりは、朱蒙は〚天帝〛の血筋と言いたいのである。朱蒙は〚天帝〛の血筋であり、母が「河伯(かわのかみ)の女郎(むすめ)」なのである。

 

(偶然にこれがヤマトタケル伝説にも繋がる「川上(かわかみ)」なのである。洞穴にに住んだ「熊襲の首領」川上梟帥(カワカミタケル)の川上=河伯(かわのかみ)である。)


『魏書(ぎしょ)』の高句麗伝によると、扶餘(夫余)(ふよ)王が「河伯の女」を室内に閉じ込めると、彼女は日光に感精して孕(はら)み、大卵を生んだ。「玉、卵」から生まれた男児朱蒙(しゅもう)であり、朱蒙とは善射(弓を上手に射る)の意味をもつ、という。

 

(そして、これにより、日本の伝承では、ヤマトタケルがクマソタケルを討伐する際に「クマソの娘」に手引きをさせてクマソタケルが討伐を成功させたという伝承があるのである)。

 

朱蒙は「天帝」ともされた。なぜなら天帝の子であった。「夫余(ふよ、プヨ)」の迫害を避け、「漢の支配」をも逃れて、東南に行き「高句麗」を建てた(時期は約前1世紀)。その朱蒙の息子、末の弟に高句麗を譲り、他の地に出て行った兄弟がいた。その残りの朱蒙の皇子(高句麗王の末の弟の兄)が〚百済〛の王ともなる。

 

そして、ここで登場する三人の兄弟の末の弟を除いた「残りの二人の兄弟」の「弟」である百済初代王温祚王(おんそおう、在位: 前18年 - 後28年)が百済建国をした。この王の名前からわかってくるだろうことであるが、これが吉備地方に入ってきていた百済王の「温羅(うら)」の祖であるのである。

 

また、女系側にあたる「河伯(かわのかみ)」が「クマソ」に繋がるので、当家は熊曽国(くまそ)の土豪古事記熊曾建(クマソタケル)でもあり、この熊曾建(クマソタケルの血筋)は肥後国(現熊本県)の球磨(くま)と大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)一帯」を治めた「王」なのである。

 

つまり、熊曾は球磨(くま)+曾於(そお)というのが正式な読み方ではある。YouTube界隈でこの内容がすり替えられたりするが、熊襲とは対立国からみた別称であり、本来の熊曽国の土豪古事記」熊曾建は、「肥後国(現熊本県)の球磨(くま)大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)一帯を治めた王」であり、討伐を受け「洞穴」に住んだのは「河伯の女(熊曽一族)」である。

 

もう一度書くが、

 

扶餘(夫余)(ふよ)王〛が〚河伯の女(熊曽一族)〛を閉じ込めたが、「太陽によって孕んで生まれたというのが朱蒙」であり、「太陽」から生まれた御子として特別な描かれ方がなされておるのは、それは「天帝の御子でもある」からであった。女系が「河伯(かわかみ・川上)の女」であり、これが河伯の女(熊曽一族)の一族である「川上猛」にも繋がる。朱蒙高句麗の建国者となったが、その皇子らが百済の建国者で王となった。すなわち、朱蒙の子が百済である。

 

また、「日光に感精して孕(はら)み」というくだりは、阿加留姫命(あかるひめのみこと)についての「日光感精神話」にも共通する。さらには、この阿加留姫命(あかるひめのみこと)についての「日光感精神話」は日本では「大隅(九州)」から発祥する。

 

つまりは、初めにいた熊曽(球磨・曽於)の一族に、後の世代の同族が大隅に入った。その名は現在では「秦(はた)」の氏族とも呼ばれる。われわれ、大隅熊曽(大隅隼人)の祖、河伯の女の一族である熊曽一族)にはこれが伝承される。

 

そして、この大隅の国肥後国(現熊本県)の球磨(くま)と大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)一帯を治めた「熊曽国の土豪古事記」熊曾建」の国には、宇佐神宮以前からの「八幡神信仰」の社がある。この一族同氏が、同族である事を認めたかで、混血し家族関係を築く。

 

阿加留姫命(あかるひめのみこと)についての「日光感精神話」の場合は、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。この赤い玉から変じた美女が阿加留姫命(あかるひめのみこと)であり、新羅の王子であった「天之日矛(あめのひぼこ)」は彼女を妻とした。

 

ある日、新羅王の天之日矛が激しく阿加流比売を罵った事があり、 阿加流比売は「祖国へ帰ります」と小舟で日本に戻り、現大阪の難波で暮したといわれる。阿加流比売の出自神話(赤玉誕生)の場合は、それ以前にあった朱蒙(男性)ではなく、阿加流比売(女性)となっている。

 

また、どちらも「日光感精神話」であり、直接的には「太陽神の御子」として「天帝の子(または子孫)」とはないものの、「好太王碑文」には朱蒙が天帝の子・「魏書」には〚扶餘(夫余、ふよ、プヨ)の王〛の子となっている。

 

阿加流比売の出自神話(赤玉誕生)は朱蒙誕生神話と共通しており、阿加流比売とは「太陽神の妻」=巫女と思われる。太陽の御子は「男」であり、「女」もあられるということか。もしくは巫女というものが太陽神を祀る「月」の様な存在なので「ミコ」である女性が描かれたか。

 

実は、これが現在の日本でも「天照」とは誰か・何かという論争となる

 

と筆者は思っている。 われわれでいえるのは太陽神を祀る巫女は女性であり「月」である。女性側は「」とみている。本来はそうであったが、巫女は男性も務める場合があった。すなわちは「祭祀」を誰が取り仕切るのかによる。それは古来は「巫女」だった。これについては、姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」の記事に綴る。

 

また、下光比売命大国主神多紀理毘売命の娘)、 または大国命の婿の天佐具売(天探女)と混同されたりするとの事がある。だから、ここまででも色々言いたいこともあるのだが、これに続いてを書いていく。


われわれの祖である百済王の温羅(うら、「鬼ノ城縁起」「桃太郎噺(ももたろう)」とは、この『百済(くだら)』の王である。名からするとわかるが、百済初代王温祚王(おんそおう)からの流れ、百済王温羅(うら)の事である。また、われわれはもともとが、熊曽国の土豪古事記」熊曾建(肥後国(現熊本県)の球磨(くま)と大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお、大隅と周辺)一帯を治めた)の一族の〚球磨+曾於=球を磨く曾於〛でもある。

 

われわれは元々ルーツが同じだとわかったので「混血」している。

 

吉備、岡山県あたりに山城を建てた。日本では「鬼ノ城縁起」に描かれているものが、温羅(うら、百済王)であり、製鉄の技術を日本にもたらしたと地元では嫌われていない。しかし、おとぎ話上では「桃太郎」の鬼のモデルで悪役とされている。

 

山上に山城を建てたのもこの温羅であり、朱蒙の子の兄の沸流(ふっりゅう)・弟の温祚(おんそ)の話でも「山」に国を築いたのが弟の温祚であり、温祚が「百済」の建国者となっている。

 

日本神話の山幸・海幸彦の話にも似ていると示唆したが、実は、神武東征の際に、五瀬(神倭伊波礼毘古の兄のいつせ)が「海」を渡り、弟の神倭伊波礼毘古(かむやまといわれひこ、のちの神武天皇)が「山」を渡る日本神話にとても似ているのである。

 

故に、日本神話は、朝鮮半島での出来事や神話を、「海佐知毘古・山佐知毘古(うみさちびこ・やまさちびこ)の話」として、またその話を『再編纂』したのだと筆者は見ている。そして、自分自身の祖先とも照らし合わせると”不思議”が見つかるのである。


古代倭国百済と親しく、古代倭国には多くの百済王、例えば百済からの王などが既に在留していた。さらに、白村江の戦いなどでは、百済の王子というのは日本での「人質」的に日本に留位していた、というのも伝承である。(後者は後世の話には思う)

 

吉備卜部氏の祖、妻は阿曽媛、吉備巫女王である。温羅の斬首を猿飼が行った後、稚武彦命(わかたけひこのみこと、 『日本書紀』稚武彦命」、『古事記』若日子建吉備津日子命、若建吉備津日子命」、他文献;若武彦命)が温羅の妻を娶り、吉備巫女王とし、温羅一族を平定した。


この子孫は、吉備氏となった。鴨別(かもわけ)は吉備氏血流からである。また、陰陽道開祖の吉備真備(きびのまきび)は、吉備氏である。

 

 

続く

古代出雲族とは ①天之菩卑能命の子の天夷鳥命、その末裔

⬛️古代出雲族とは

日本神話には、以下2系統に属する一族がそれぞれにある。1つは、スサノヲの子孫の十七世神、地祇系(ちぎけい)に属する一族。もう1つは、天之菩卑能命アメノホヒ)の子孫は天神系、天孫族とある。

 

出雲族(いずもぞく)』と呼ばれる系譜は、基本的には、スサノヲの血筋の家系とされる。スサノヲとは、記紀古事記日本書紀)において、イザナギイザナミ御子神とはされる。

 

スサノヲの兄弟は、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと/伊勢神宮天照大御神 あまてらすおおみかみ)と、月読尊(つくよみのみこと)であり、三柱の兄弟神は『三貴子(みはしらのうずのみこ)』と呼ぶ。

 

現在「神様といえば?」を問えば、『天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと/天照大御神 あまてらすおおみかみ)』の答えが出てくるであろう。その次には、この『三貴神(さんきしん)』であろう。そして、『国譲りをした大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)』もそうだとは思う。

 

しかし、そもそも、記紀ですら、本来の出雲大神の宮にある神宝とは、『国譲りをした大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)』ではない。

 

「武日照命(タケヒナテルノミコト)が天より持ち来れる神宝」である。すなわち「一に云わく、武夷鳥(タケヒナトリ)という。又云わく、天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)という」との注釈もある。この神は、崇神紀「武日照(たけひなてり)命」、日本書紀出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」などに見える神である。


古事記』「天之菩卑能命アメノホヒ)の子武比良鳥命(タケヒラトリノミコト)は出雲国造らの祖」とあり、出雲国造の神賀詞には、天孫降臨の使者、天照大御神とスサノヲとの「誓約(ウケイ)」で生まれた天之菩卑能命アメノホヒ)の子の天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)がもつ出雲の神宝である。

 

つまり、

 

『国譲りをした大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)』が正当古代出雲族という事ではなく、出雲の神宝を持っていたのが『天之菩卑能命アメノホヒ)の子の武比良鳥命(タケヒラトリノミコト、武夷鳥)つまり、天夷鳥(アメノヒナトリ)』という出雲国造らの祖が原初の出雲族であると筆者は見る。

 

天日照命(あめのひなでりのみこと) とも称される天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)の名は「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」の意。この天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)に、記紀神話で活躍した「布都怒志命(フツヌシノミコト)」は遣われている。

 

そもそも、出雲大神の宮にある神宝は、記紀神話での「国譲りをした大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)」なのではない。

 

国譲りの交換条件として建立された出雲大社の祭祀を執り行う「出雲国造(北島氏、千家氏)」は、天照の天照大御神とスサノヲとの「誓約(ウケイ)」で生まれた第二子天之菩卑能命アメノホヒ)の裔孫なのだ。

 

天之菩卑能命アメノホヒ)の子の天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)がもったのが本来の出雲の神宝を持っていた古代出雲の一族。

 


國學院大学データベース(http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/takehiratorinomikoto/

日本書紀崇神天皇六十年七月己酉条には、武日照命が天から将来して納められたという出雲大神の宮の神宝が天皇に献上されたことをめぐって、出雲臣の遠祖・出雲振根と弟・飯入根との間に起こった事件が記されている。

この話は、出雲国造が神賀詞を奏聞して神宝を天皇に献上する儀礼と関係する伝承とも考えられ、出雲大神の宮の神宝とは、出雲国造神賀詞の伝承の中で、天夷鳥命が地上に降って大国主神を鎮定した際に用いられた呪具のことだとする説もある。

 『新撰姓氏録』に、天穗日命の子・天夷鳥命(天日名鳥命)の後裔とされる出雲宿禰や出雲臣が見える。出雲臣は、意宇郡を本拠として出雲国造世襲した豪族。出雲宿禰も、出雲臣が宿禰姓を賜って出た氏族である(『続日本紀延暦十年九月丁丑条)。

 

まとめ、

 

崇神天皇60年7月、崇神天皇は「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝は出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わした。

 

出雲の飯入根(いいいりね)が、当時の出雲の当主であったが、兄の出雲振根には無断で出雲の神宝を献上してしまった。出雲振根は飯入根を謀殺する。しかし、振根は大和朝廷に誅殺される。(『日本書紀』)

 

この後にあった律令制下で、出雲国造の領域を元にして、昨今よく知られる出雲国が7世紀に設置された。古代出雲(こだいいずも)とは、そもそも、弥生時代古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部)にある出雲平野、安来平野を中心に存在したクニをさす。本来は、出雲臣の遠祖・出雲振根(ふるね)と弟・飯入根(いいいりね)が治めていたという。

比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)

比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)は、神道の神 (神道)であるのだが、あまり「認識」はなされていないと感じる。


神よ、神よというわりに、その分類や歴史をしっかりと「分別」出来る人々も少ない気はする。故に、このブログへ重要点を記していこうとは思う。


神社の祭神は『主祭神(しゅさいじん)』であり、主祭神の妃神(きさき、后、妻、関係深い女神)として、並んで祀られている女神が『比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)』とされる。比売大神とも記され、比咩神は古い記述の様である。


妃神(きさき、后、妻、関係深い女神)の中で最も有名なのは八幡神の妃神の比売大神であり、八幡神を祀る宇佐神宮(うさじんぐう、秦の祀る)等では『宗像三女神(沖津島姫・江ノ島姫・市杵島姫)』のこととしている。しかし、そもそも、八幡社(はちまんしゃ)の八幡神じたいも、その比売大神も、それがどういった神かは深い諸説がある。


八幡神応神天皇とされたりする諸説はあるが、実際にはこれはさらに長い説明が必要であるので、ここではカットし、別の記事に記述していこう。ここでは、筆者が前々から気にしているポイントを書いていこうとは思うのだ。結論からいうと、筆者は天児屋根命(あめのこやね)である。


われわれ当家(秦一門の吉備の卜部氏、うらべ)の祖神から見たら、後世の神で、婚姻・混血で家族になったのが天児屋根命(あめのこやね)という神であったとみられる。筆者は安曇磯良(あづみのいそら)であり、武内宿禰(たけのうちすくね)である見方の諸説に合点がいっている。中臣氏系図を見てである。


当家は卜部氏(うらべ)六代目であるが、中臣氏分家ではない為、元より秦一門であるが、卜部という宿禰(すくね)の古代祭祀一族とは、必ず、武内宿禰(たけのうちすくね)と交わるだろう。また、当家は吉備に留位した頃の卜部である為、吉備太秦で吉備氏や葛城氏、特に、鴨族(賀茂氏の古い呼び方)とは古くから家族でもある。


そういった当家を卜部からみた場合、当家吉備卜部氏(うらべ)とは、京都に移る卜部の前身である。武内宿禰の娘または妹(松尾社系図では妹)と交わる真根子命(まねこのみこと)という祖をもつ『伊岐・壱岐卜部』があるが、伊岐・壱岐卜部祖が真根子命であり、後に鴨族と共に大和や大和葛城、京都山城に移動した後の卜部の祖の呼び方というわけである。


鴨別は吉備の「桃太郎(ももたろう)」という五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと、後の吉備津彦命 きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこ)と、地元大隈の民(当家は吉備の大隅熊襲秦氏末裔)や、鴨族たちの婚姻・混血した後の末裔、吉備氏の末裔である。天皇の笠が風にとばされた時に大猟の前兆であると言上して、賀佐(かさ)の名を賜り、笠氏祖となったという経緯もある氏族である。


鴨別(かもわけ、鴨別命、吉備鴨別、きび の かもわけ)は、吉備武彦の3男で、吉備御友別(みともわけ)の弟。『日本書紀』等で吉備氏一族の笠臣(笠氏)祖。この神は神功皇后の命で熊襲(くまそ)を征討した。吉備巡幸中の応神天皇が御友別の息子・兄弟に吉備国を分与し、波区芸県(はくぎのあがた)を授かった。すなわちは、鴨別は『吉備』からきた。


吉備というと岡山県だが、吉備には『かがみ』の『加賀』という地があり、こちらの『鴨神社』では、鴨別命(かもわけのみこと)=別雷命(わけいかづちのみこと)および品陀別天皇(ほんだわけすめらみこと)=応神天皇、足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらにこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)の四柱の神々が祀られている。


明治3年『神社明細帳』勧請弘仁年中、昭和27年『神社明細帳』人皇第52代嵯峨天皇の御宇山城国愛宕郡賀茂大明神を勧請とされるのだが、遡る事に、『吉備温故秘録』等の江戸時代の書物で笠臣(笠国造)の始祖鴨別を祀っていたとされ、『備陽郡誌』は創造年代不詳のものであるそうだ。だいたいこのくだりに想像できるが、後世になり、歴史が変わった事だ。


かつては現在地から南方にある『字矢坂(やざこ)』の山の上に座した大明神屋敷に祀られていたが、明治末期になり『八幡宮』を合祀して、品陀別天皇、足仲彦天皇神功皇后の三柱を祭神として勧請され加えられたという事である。そもそも、鴨別命(かもわけのみこと)=別雷命(わけいかづちのみこと)は、「吉備氏」である。


この流れは、以前にどこかにコメントした「厳島神社はそもそも宗像三女神(沖津島姫・江ノ島姫・市杵島姫)を祀ってはいず、後から、比売神様が祭神と置き換えられた」という流れにつながる。厳島神社はそもそも占部の宗像ではなく、卜部が祀る神が祀られていた。厳島神社の表記も『伊都岐島』であった。すなわち、卜部氏(うらべ)の伊岐・壱岐の神である。


927年に編纂された延喜式厳島神社が主に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)に祀ったのは『伊都岐島大明神』である。中宮明神、別若宮明神も祀られて、客人や相殿も現在は一変したが、全くもって違う神が祀られていた。われわれ当家は清盛と共に育った孫代の祖があったが、清盛時代も宗像神でなく伊岐・壱岐の神を祀った。現在の主祭神となった「宗像三女神」は戦国時代からではあるとみられている。


これはどういう事かというと、現在まで、歴史は上塗り、上塗りを繰り返し、神々を合わせ『混合』したという「真実」である。すなわち、世界史においても歴史は勝利した勢力が土着信仰を飲み込んで、融和させていったのと同じ事ではある。であるから、今、もう一度、きちんと学び直されたい方々へその真実を記して行く。厳島神社では『伊岐・壱岐の都の大神』が祀られ、卜部が祀った。


そもそもで、当家は『平家物語』上に南朝方平家武将家系として記されているが、われわれは白龍の白を司る源氏方、八幡神方の吉備の卜部氏(うらべ)六代目直系末裔であったが、保元の乱(1156年/保元1年)・平時の乱(1159年/平治1年)にて清盛方に女と孫代がもらわれた。後白河と当家女系の御子は忠盛が育て清盛と育ったから『清盛』についた。しかし、その御子は、卜部氏(うらべ)であり、清盛が建てた『厳島神社』では清盛時代も「伊岐・壱岐の都の神」が祀られて、卜部が祀った。


われわれは本家、伊勢し神宮神官は地名と末裔らが提出した大中臣氏本系帳、中臣氏本系帳、藤原氏本系帳、及び尊卑分脈からを根拠にも、『中臣氏(なかとみうじ・なかとみし)の分家』ではなく、われわれ卜部氏(うらべ)が元であると尊卑分脈に綴られる。また、中臣氏とは欽明天皇時代が初代とされ、黒田連の常盤が初代であると本系帳および尊卑分脈、複数書籍に残り、宮内庁にも登録される。


つまり、卜部氏(うらべ)とは卜部氏(うらべ)であり、伊岐・壱岐、その元の対馬、プラス、琉球(竜宮)にルーツを見つけることができる一族、氏族であり、また、太占(ふとまに)含む、骨卜(こつぼく)、亀卜(きぼく)をそもそも持ち込んだ、われわれ秦氏(はだし・はたうじ・はたし)と同族であると、筆者はみなしている。また、その信仰は、母子信仰に繋がり、われわれ大元の拠点である、『大隈』には、大隈一族(熊襲、つまり阿曽、阿宗、阿蘇の一族)と秦氏が融合され暮らしてあった。故に、近隣は『豊国』も存在する。


これは長い前説だったが、そもそもで、われわれは『火の国、日本』がルーツの日本人である。神話にも、火の神を斬り殺した剣先から滴るもの、血やらが『水の神』となっているだろう。すなわち、火の国、火の神の御子になるのが水の神である。それを塗り替える事は出来ない。日本列島は火山国であった。島が分かれ、国が分かれ、それぞれに暮らしていた。土着民や土着信仰を「上塗り」してきたのが正直なところで、それをまず認めてから、原初に立ち帰り、神の国神話を建て直した方が良いと筆者は思っている。


しかし、わかってない方は多い。そもそもだが、われわれ当家の祖はそもそも九州阿蘇山から広がった。弊立神宮に繋がっている祖である弊を立てた神である健磐龍命 (タケイワタツノミコト)は、阿蘇神社の主祭神で、阿蘇津姫命(あそつひめ)はその比売神である。このわれわれの祖神達は、婚姻したのだ。肥前、肥後という国々を建て、それから吉備の備前、備後という国々を建てた。


当家、秦一門の実名の別名を持つ城は、大隈と吉備にある。われわれはもともと大隈熊襲すなわち阿曽・阿宗・阿蘇の一族だったが、秦と大隈にて融合している。秦も東方へ向かい豊国も九州に建てている。ちょうど九州の肥前肥後→九州の秦国豊国→吉備の太秦備前備後→丹羽丹後の秦国豊国の流れは見えるかと思われる。丹羽の近くには吉備国である播磨もあり、河勝が逃れたのは身内の国だからである。


この流れの上に、何故、卜部氏(うらべ)が中臣氏(なかとみうじ・なかとみし)となるのか。いっこうに不明ではあり、そもそも、かつての邪馬台国とは「火」を扱う「鬼道」のクニでもある。神殿信仰は後から来た信仰であり、山などが御神体である古神道は現在の「中臣式神道」とは別だった。さらに、日本の殆どの神社はそもそもに秦氏(はだし・はたうじ・はたし)が建立した。秦神道物部神道中臣神道、と言ったようなものがあると「認識」頂きたい。


このように記す理由は、当時にあった『中臣氏の祭祀、政治の掌握』は、どうしても語らなければならない事だから、語る。それまでに古い歴史にあった、伊岐・壱岐対馬信仰は記紀により消され、斎部・忌部氏(いんべ)の祖のみが抜粋されて記され、さらにその後には忌部は「公民になった」事も記す。また、記紀によりては、土着信仰的な対馬高御魂命(たかみむすひ)系譜の天太玉命(あめのふとだまのみこと)のみが抜粋され、それに並ぶ天児屋根命(あめのこやね)が新世代の神となった。


この時代、本来は兄弟ではなかったとされる中大兄皇子のちの天智天皇と、海人族(あまひとぞく)に育てられたとされる大海人皇子のちの天武天皇があり、大化の改新(たいかのかいしん 645-650年)が行われて、天武天皇により身分制改革と記紀編纂が命じられている。『古事記』は国内向け、『日本書紀』は対外政策とされ、それぞれ『古事記』は和邇氏と近い稗田氏の稗田阿礼と多氏の太安万侶 (おおのやすまろ)ら、『日本書紀』は天武の皇子ら、尾張氏など複数豪族らが藤原氏勢力下で編纂がなされた。


この経緯の中、春日大社に祀られる主祭神ら、そのうちの天児屋根命(あめのこやね)の比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)についてを記すが、その神は『天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)』である。大日孁貴尊(アマテラス、天照大日孁尊、あまてらすおおひるめのみこと/天照大御神 あまてらすおおみかみ)を比売神としている神社もあると言われている。これは神功皇后武内宿禰御子神応神天皇と囁かれる諸説に繋がる。


何故ならば、天児屋根命(あめのこやね)は、磯良である武内宿禰と同一視もされており、その比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)は…という事に繋がっている。それについては、格言はまだしないが、天照大御神とは、「役職名」とされているので、大国主饒速日のように同じ「役職名」をもつ複数の神々(祖)達がおられた事と、それにより「同一視」されている神々を考察するのは大切ではある。


比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)を

主祭神としている神社は日本各地にある。また、摂末社として祀られている事も多い。


比売神社 (奈良市) 南都鏡神社摂社

比売神社 (泉佐野市) 日根神社摂社

比売神社 丹生都比売神

姉倉比売神社 多治速比売神

鐸比古鐸比賣神社 村屋坐弥冨都比売神

伊和都比売神社 佐用比売神


契丹古伝からの倭国大乱①日神オオヒルメと日孫と鏡

 

契丹古伝からの学び


契丹古伝の始まりは、満州奉天のラマ寺院に保管されていた古文書であり、明治38年に浜名寛祐が書写して発表したものが名付けられて「契丹古伝」と呼ばれている。全部で46章ある。


この始まりにあった古文書は、滅亡まもない渤海で成立したとされる。作者は耶律羽之、契丹国の分国の東丹国の役人とされる。編築者は渤海出身史官が多かったと推測される。


大まかな内容は、『東大神族(しうから、辰法固朗)』という古代先住民族と、漢(かん)という民族との抗争が複数文献を引用しつつ記されている。故に、漢民族の歴史書とは異なる事が記されていたりする。引用文献は、下記ではある。


耶摩駘記(やまとき)、神統志(しんとうし)、氏質都札(ししつさつ)賁弥国氏洲鑑(ひみこくししゅうかん)、泙美須銍(かみづち)、辰股大記(しんいんたいき)、西征須疏(せいせいそうしょ)、洲鮮記(しゅうせんき)、秘府録(びふろく)等。


この古文書、契丹古伝の中心は『東大神族(しうから、辰法固朗)』とされる古代民族である。東大神族(しうから)は、中国大陸では漢民族以前の先住民を指しており、中国の神話などの始祖である三皇五帝も東大神族(しうから)にルーツを持つと記されている。


そして、契丹古伝では契丹族は『日神(太陽神)の神族である』という主張が見られる。また、契丹古伝の第4章には東大神族(しうから、辰法固朗)の民を「タカラ、宝」と呼んだと記される。


個人的なノートとし…


筆者はこれに当家の裏家紋を連想した。子孫が方々へ広まり繁栄する意味がある七宝紋、その中央に十六葉菊紋である当家の裏家紋について、一族や民を「タカラ」と呼んでいる東大神族(しうから、辰法固朗)からの繋がりを感じた。契丹古伝からは学べる事があると思っている。


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◆日神と日祖と日孫


①裏珂旻(かがみ)の信仰


「神は光り輝く存在であり言葉では表しえない。ただその光輝く耀体を象ったものがある。それが鑑(鏡)である。よって鏡を日神体といいそれを『裏珂旻(かがみ)』とよんだ。」


②日神(かか)と可汗(カカム)


契丹民族、突豚、ウイグル、蒙古らは、君主を『可汗(カカム)』とした。君主は日神(かか)の末裔であり、日神をその身に宿すという敬称が可汗(カカム)の語源とされる。


③天之羅摩船(あまのかかみふね)


契丹古伝研究者からは、日本神話において、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗って出雲までやってきた『天之羅摩船(あまのかかみふね)』は、可汗の派遣した可汗船で船中に鏡を祀る舲日神船と解される。


④青銅鏡(せいどうきょう)


日神、裏珂旻(かがみ)の信仰を持つこの人々は、トーテムが青銅鏡であったと見られ、青銅文化時代以降を推定している。日本の三種の神器でその代表とされるのが『鏡』である事はこれに共通し、倭人が青銅鏡(せいどうきょう)をシンボルとした事からだと研究主張がある。


⑤アメノオオヒルメとアメミスサナミコ


「恭(うやうや)しく性(おもん)みるに、日祖の名はアノウシフウカルメである。シウミスサホナで禊ぎをされ、清悠の気が凝り固まるところに日孫が誕生した。」


契丹の日祖は、アメウシフウカルメという女神であり、カルメの力(裏)ヒ(日) と同義であるから『ヒルメ』とも読めるという。この女神は海辺で御子を産む。


その御子は日孫、神祖、アメミシウクシフスサダン(ナ)ミコとされた。日孫はカカミの御子、カモとよび、高天使はコマカケとよび、シウクシウは東大国皇(しうくほ)を意味した。そして、スサダン(ナ)ミコは『スサノヲ』、「檀君桓因の子桓雄」とも解される。


⑥スサ、ダン


スサについて、これはアケメネス朝ペルシャの王都スサ(Susa)とよく説明されているが、元々はエラム人の都であった。また、ダンについて、これはメソポタミアにあったダゴン神からで、その御子神であるというのが日孫の名に繋がる。


殷族、淮夷(わいい)、共に檀君についての神話があったとされ、殷の宗主国イシンの民もダゴン神を奉じた。この一族、日孫の一族は、万方に展開したと契丹古伝には記される。一族の名はシウカラ、民はタカラ、シウカラのシウはウルクや夏王の『禹』を表すという。


⑦スサダン(ナ)ミコ一族が日神族


つまりは、契丹古伝の中心である『東大神族(しうから、辰法固朗)』とされる古代民族は、スサダン(ナ)ミコは『スサノヲ』の一族とされ、契丹の日祖アメウシフウカルメ、アメノオオヒルメという女神の御子神とされた。


筆者はオオヒルメは、対馬信仰、天道信仰、天道日女(アメノミチヒメ)だともイメージをしている。また、大隅に降り立った母子神にも…重ねられなくない。その『母子』という事が繋がるのだ。


記紀では、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)とするから、ここが繋がりにくいのと思う。さらに、神々をわれわれの祖とも言わない。


日本神話において、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗って出雲までやってきた『天之羅摩船(あまのかかみふね)』は、日祖末裔の君主である可汗(カカム)の派遣した船中に鏡を祀る船と解される。


少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子神、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子神。相違がありすぎる点である。これは勢力争いなのか、バレぬ様な工作なのか。


⑥アノ、アヌ、アメ


前期ヴェーダ時代の五族の太陽を意味するアノ族(アヌ族)、メソポタミアでは天空神を意味するアヌを起源にし、アノ、アヌ、アメと呼ばれるとされている。(ちなみに、前者アノ族は十王戦争で敗北後に歴史上から一度消えている。)


日本の神々はよく「天(アメノ)」という呼び方が付く。この起源となるものは、ヴェーダ時代、メソポタミアの時代に遡るだろう。また、アノ族が敗北したという歴史について、天照族がスサノオ族との争いに一度敗北した説話に似る(このスサノオは日孫のスサダン(ナ)ミコではないとされる)。

 

契丹古伝での倭国大乱


契丹古伝での倭国大乱が始まった年は、約178年から183年と推定されている。契丹古伝上で、倭国大乱が始まるのが下記である。


「漢末」(=前漢が紀元前206年 - 8年まで、後漢が25年 - 220年まで、両漢の総称が「漢王朝」)


「霊の間」(=「桓靈の間」桓帝即位の西曆146年から霊帝退位の189年まで)


霊帝光和中」(=178年から183年の間)


霊帝光和中」(=178年から183年の間)を中心に参考として約178年から183年と推定がなされる。


また、この倭国大乱が終わる年に卑弥呼が立てられて大乱が平定される為、卑弥呼が即位したのは上記の同年という推測もなされている。


霊帝光和中の178年から183年の5年間が契丹古伝での『倭国大乱』とし、卑弥呼が立てられて大乱が平定されるまで、その5年間に起きたこととはどんな事なのだろうか。


①気候変動での小氷期による食糧難

②騎馬遊牧民鮮卑族倭人国を襲来

③公孫が卑弥呼を共立する


鮮卑族(せんぴ、Xiānbēi、紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族)』


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/鮮卑


後漢書烏桓鮮卑伝によると、東漢霊帝光和元年、西暦178年、冬に農耕や牧畜や狩猟では食糧を調達したりが難しくなった事態が記されているといわれる。


鮮卑の族長、檀石槐は、自ら鳥侯秦水を調べ、河川に魚を見つける。しかし、騎馬遊牧民である一族は漁が出来ない為、東の倭人国に襲来し、千戸ほど集まった倭人集落を取り、秦水の上に住まわせ、漁労に従事させ、鮮卑族の食糧難を乗り越えたと記されるとする。


この鮮卑族倭人国襲来は西暦178年と推測されており、その領有地は遼東北部→遼西方面に移動、東の遼河流域一体地区を占める。西は新疆ウイグル自治区周辺までを占めたという。(西暦170~180年代)


鮮卑族にとって、東にある倭国とは、東の遼東方面、干山々脈より東の地域、またはは鴨緑江(おうりょくこう)という河川下流域周辺ではないかといわれる。


契丹古伝によると、騎馬遊牧民族である鮮卑族倭人国を襲来とあるが、騎馬隊が隆路侵攻できる土地に当時の倭国は存在したという説が成り立つ。


そして、これは陸路で襲来できる朝鮮半島内で起きた出来事とされるだろう。すなわち、倭国倭国大乱と聞いて、それは日本国内であると思われる方々が大半であるとは思うのだが、それは実は『朝鮮』を舞台に起きた内容が語り継がれたという見方もあるのだ。


③公孫氏の卑弥呼


公孫度という人物は、養父の公孫域の後継ぎであり、遼東地域の鮮卑族や、高句麗、烏丸(うがん)を征した有力氏族の人物である。公孫氏の宗女(血縁)は、扶余王台(現在の中国東北部満洲にかつて存在した民族および国家)に嫁ぎ、婚姻により同盟が結ばれていたと見られる。


扶余についての地に記すも、夫余が建国する以前のその地には濊(わい)族が住み着いていたとされる。また、後に、匈奴(きょうど)の侵入にあったり、さまざまに学ぶべき点がある。

 

公孫氏とはこの扶余と対婚政策にて同盟関係を築いていたという事であるが、だからこそで、両国から「共立」できる王を立てようというとき、それを叶えられたのが女性である卑弥呼の以外にはなかったのだった。

 

何故なら、先述したように、公孫氏から扶余へ嫁いだ宗女(血縁)というのが卑弥呼だったのだが、そうすると、卑弥呼は公孫氏の血筋でありながら、同時に扶余の家系でもあった。両国から平等に『王を共立させる』には、卑弥呼という「女性」でしか叶わなかったのだ。


魏志夫餘伝」「隋書百済伝」から、公孫氏とはこの倭国大乱時代に遼東を治めていたが、先述の様に、鮮卑族の食糧難の為の倭人襲撃拉致から倭国大乱が続いた。故に、公孫氏や扶余は策として女王、卑弥呼を共立させたと推測がなされる。


「晋書四夷伝倭人条」によると「乃ち女子を立て王とした名は卑弥呼 宣帝が平らぐ公孫氏也」とあり、意味として、卑弥呼は公孫氏、又は、倭国は公孫氏である。すなわち、どちらにしても、卑弥呼であるからこそ倭国の後ろ盾には『公孫氏』『扶余』の二勢力があった。

 

魏の景初二年、西暦238年、魏の司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)が公孫淵(えん)を東梁水(とうりょうすい)で討ちとり、公孫氏は滅び、司馬により遼東平定と華北の統一を成し遂げられた。そこまでには公孫氏が遼東を治めたという事であった。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/公孫氏_(遼東)

 

魏志倭人伝』にて、農民達の起こした黄巾の乱の前後の倭国大乱から公孫氏が滅んだ後、卑弥呼が魏へ送っていた遣使や倭に関する記述は途絶えたとされる。公孫氏は、倭が中国本土へ朝貢する際に遮り、朝貢を代わりに受けていたかもしれない可能性が示唆されていたりする。


新撰姓氏録』では「常世連」は大陸から日本に帰化した氏族で公孫淵末裔と記述する。常世氏(とこよし)は、桓武平氏加納氏流の武家がある。燕王公孫淵の末裔を称す渡来系氏族赤染氏の一族。河内国大県郡を主な根拠地とし、同地に常世姫神社(大阪府八尾市)を祀るとされる。

 

フェニキアにルーツ

 

また、公孫氏は、よく漢民族とはみられたりされるも、実は公孫氏一族、卑弥呼フェニキアにルーツを持つといわれている。フェニキア人はインドネシア〜フィリピン、そして、日本列島にも渡来していたともされ、卑弥呼の「鬼道」とは「ヤーべ」、古代ユダヤ教に根差したものではないかとされる。


יהוה、ヤハウェ、Yahwehとは、旧約聖書にてモーゼに十戒を授けたヤーウェではある。牛神はバアルと呼ばれるが、バアル=シヴァ=ヤハウェだともいえる。そもそもヤハウェ=バアルは表裏一体でもあるから。破壊神シヴァ=牛神バアル、荒神・牛頭天皇・スサノヲでもある。

 

続く

 

猿田彦大神と佐田彦大神と佐太大神①麻須羅神(ますらがみ)の御子神とは

当家、吉備卜部氏(うらべ)は、秦氏(はたうじ・はたし)に繋がる家系で、家系図にも記される。だから、秦氏伏見稲荷などに関わる事も書いていこうと思う。

 

伏見稲荷秦氏の祖神である『宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)』は祀られる。この神の配偶殿には『佐田彦大神(さたひこおおかみ)』が祀られる。

 

この神は、すなわち、伏見稲荷の上之社(かみのしゃ)の神、田中社の『田中神(たなかのかみ)』であるとされ、「猿田毘古(さるたひこ)」と同一神とされる。

 

すなわち、この神は、佐太神社の祭神の『佐太大神(さだのおおかみ)』でもあるとは言われる。また、佐太神社は、佐田彦とは表記していないのには理由がある。

 

佐太神社は、明治政府から「猿田彦」と祭神名を改める様に言われたのだが、その様にはしなかったそうである。

 

つまり、

 

佐田彦大神より以前には、佐太大神(さだのおおかみ)だったという事である。濁点は後に「格下げ」のために付けたと、竹内文書的な説があるが…

 

佐太神社の場合は、佐太大神(さだのおおかみ)をあくまではじめから祀っていた。後から、明治政府は、『猿田彦』にしたかった。

 

だから、「圧力」をかけたようだが、佐太神社が拒否をしたから『佐太大神(さだのおおかみ)』という神を祀る事を継続してる。

 

まとめると、

 

佐田彦大神佐太大神(さだのおおかみ)=田中神(たなかのかみ)であり、猿田毘古(さるたひこ、猿田彦)と同一神いう説が根強いようだ。

 

記紀神話佐田彦大神猿田彦大神としたいようであり、明治政府も記紀通り、佐田彦大神猿田彦大神佐太大神としたかったようだ。

 

しかし、

 

佐太神社により、佐田彦大神は、佐太大神(さだのおおかみ)であった事がわかる。また、出雲国風土記にも佐太大神(さだのおおかみ)と記される。

 

佐太大神(さだのおおかみ)と佐田彦大神(さたひこおおかみ)の違いはなんだろうか。猿田彦大神と同じ神にしたい動きは何だったのか。

 

まず簡単に記そうと思う。詳細は②以降になる。

 

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佐田彦大神伏見稲荷大社記紀

 

佐田彦大神と表記しているのは伏見稲荷大社記紀である。伏見稲荷で祀られる『稲荷三神(上社、中社、下社の神々)』の一柱である。

 

伏見稲荷神社の主祭神は『宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)』であり、佐田彦大神は配神として祀られている。

 

佐田彦大神は、

 

記紀神話を元にすると「猿田彦神(さるたひこ)」の別名と云われる。佐田彦大神猿田彦大神は「同神」とも云われているという事だ。

 

現在、佐田彦大神は、伏見稲荷の中社の祭神だが、元は、上之社の神であったそう。上之社は田中社、上之社の神は田中神(たなかのかみ)である。

 

まとめると、

 

伏見稲荷大社では、現在、宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)の配神が佐田彦大神だ。元は上之社の神「田中神(たなかのかみ)」という。

 

また、記紀では『佐田彦大神猿田彦大神』であるが、実際はどうなのだろうか。佐太神社佐太大神猿田彦大神とはしなかった理由は何か。

 

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佐太大神佐太神社出雲国風土記

 

佐太大神(さだのおおかみ)と記すのは、佐太神社出雲国風土記である。島根県佐太神社(さだじんじゃ)は佐太大神を祭神としてきた。

 

明治時代に明治政府から『佐太大神(さだのおおかみ)』を『猿田彦大神(さるたひこおおかみ)』にするように改名を求められた。

 

しかし、佐太神社はこれを「拒否」されたそうだ。つまり、元々『佐太大神(さだのおおかみ)』を祀り、そのまま継続される。

 

出雲国風土記では、

 

佐太大神(さだのおおかみ)が記されており、支佐加比売命(きさかひめのみこと)の御子神と記されている。大国主命を救った神である。

 

佐太大神(さだのおおかみ)の誕生地は「カカ」つまり輝くを表す「加賀」である。カカは蛇を表すそうだが、ここでは輝くの意味だそう。

 

また、出雲国風土記では、神魂命(かみむすひ)が佐太大神(さだのおおかみ)の祖父、父は麻須羅神(ますらがみ)とされている。

 

まとめると、

 

逆に…元々、佐田彦大神佐太大神(さだのおおかみ)の可能性があり、明治政府は佐太大神(さだのおおかみ)を猿田彦大神に置き換えたかった。

 

何の理由からか?

 

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佐太大神の父神の麻須羅神

 

出雲国風土記で、佐太大神(さだのおおかみ)の父神とされる『麻須羅神(ますらがみ)』は、太秦広隆寺、大酒神社の牛祭に似た神があるという。

 

麻須羅神(ますらがみ)は、ミトラ神と似ているという諸説があり、佐太大神(さだのおおかみ)自体もミトラ神に同じく洞窟に生まれたとされる。

 

麻須羅神(ますらがみ)に似た神が登場する太秦広隆寺秦氏(はだし・はたうじ・はたし)の地にあり、大酒神社も同氏のまつわる社である。

 

麻須羅神(ますらがみ)については「異国の神」なのであろうか、その様な形容表現もなされ、秦氏の関わりも見える。詳細も②以降に記す事とする。

 

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猿田彦大神(さるたひこおおかみ)

 

また、ここで、猿田彦大神の話になるが、記紀猿田彦は赤ら顔の天狗と形容され、異国風である事を強調する為に記紀に記される様に見受けられる。

 

猿田彦大神は、最期は、伊勢で比良夫貝(ひらぶがい)に手を挟まれて死したとされる。皮肉だが、この『貝』について思う事がある。

 

まず…

 

猿田彦大神は、佐田彦大神とされ、岐神(くなどのかみ)と宰姫(さいひめ)の御子神と云われている。出雲系神社にも祀られている。

 

しかし、

 

出雲の神の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、八十神(やそがみ)により、二度も殺害されかけているが、『貝』の神々に命を二度も救われている。

 

なのに、同じ出雲の神、岐神(くなどのかみ)の御子神とも云われる猿田彦大神は『貝』により死している。

 

さらに、

 

先述した佐太神社佐太大神(さだのおおかみ)は『出雲国風土記』によれば、大国主命の命を救った支佐加比売命(きさかひめのみこと)の御子神だ。

 

不思議なことに、

 

猿田彦大神佐太大神なのであるなら、何故、母の支佐加比売命(きさかひめのみこと)は、大国主命は救って御子神は救わなかったのだろうか?

 

佐太大神猿田彦大神であるなら、何故、支佐加比売命(きさかひめのみこと)は、大国主命をは救い、我が子は救わないのだろうかという意味だ。

 

しかも、猿田彦大神は『貝』により死している…

 

平田篤胤佐太大神(さだのおおかみ)は猿田彦神と同一と見なし、現在の佐太神社も踏襲している」

 

などと、インターネットでは吹聴がなされているも、非常に違和感がある。『貝』により死した猿田彦が支佐加比売命(きさかひめのみこと)の子か?

 

また、

 

比良夫貝(ひらぶがい)というのは、何かの暗号に思う。これも今後に記していく。

 

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◆石見神楽の八衢(やちまた)

 

石見神楽の「八衢(やちまた)」でも、佐田彦大神や、佐太大神(さだのおおかみ)は、猿田彦大神と「同神」とされるそうだ。

 

元出雲とも云われる出雲井神社の祭神は『佐田彦大神(さたひこおおかみ)』であるが、社説には「八衢(やちまた)」という名があった。

 

それを思い出したが、これは別途に記そう。

 

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続く

 

 

 

 

『蛇神』は「水の神」ではなく『山神』①原始の日本古来の『蛇神』

古代日本は大蛇、蛇の神への信仰の場

 


古代日本は大蛇、蛇の神への信仰の場であった。「縄文土器」にも「蛇」の造形が見受けられるのは有名である。神社の注連縄(しめなど)には「二元性」が表され、お正月の白餅=白蛇、稲荷の白狐=元は白蛇(稲荷者には必ず白蛇の像などがある)など様々にその神を表す象徴が派生していった。

 


蛇の信仰は、世界各地に「跡」を残している。遡れば、メソポタミア時代にまで時空を旅できるものである。それは日本にも定着し、独自の形態を成し、今日まで続いてきている。それは本当である。蛇の信仰は中国からではない。まったく違う。それはさらに古代に遡る。

 


陰陽五行によって『蛇』が『隠』とされた

 


日本古来の神社の社(やしろ)に祀られる神の起源というのは、祖霊であり、蛇神である。どういう事かというと、まず、6~7世紀の事である。その頃には、中国からの陰陽五行に基づいた「新しい神々」が渡来してきた。その中では、蛇の神とは『陰』の極とされていた。『隠』とは『鬼』と同じである。これが蛇を鬼とし、同じとした、ポイントである。

 


われわれにもともとあった「原始」にあたる大蛇や蛇の信仰は、外来から来た神々とさらに混じり合ってきたわけである。だから、中国や外来の蛇神を日本が受け入れて今日に至るのではなく、この時代以前に、日本古来に独自にあった祖霊、蛇神を祀る信仰があった。そこに6~7世紀ごろ、中国からの陰陽五行思想が入ってきて、融合を成て今日に至るというわけである。つまりは、陰陽道によって『蛇』が『隠』とされた。では、本来の「原始」の『蛇神』とはどういったものか?

 


『蛇神』とは「水神」ではなく「山神」

 


先に述べた通りで、それ故に、蛇とは稲作が伝来した時に生まれた「水の神」というわけではない。そもそも蛇とは『死と再生』を司る『生命の源(みなもと)』の意味を成し、「山の神」である。まず初めに山神、すなわち「宇賀神」や「荒神」に繋がるであり、「山の神」とは水神の神格も含み合わせた総称)である。だから、『蛇神』はもともと原始に水の神というわけではない。昨今はなぜ、蛇や龍を水へと結びつけるのかというと、それは「外来からきたニューエージ思想」が影響しているのではないかと思う。


山、そこにある水や川や滝の全てを総括した意味を為す『日本古来の蛇神』は、『死と再生』を司る『生命の源(みなもと)』の意味を成し、「山の神」であった。その「原始」の神に、中国からきた陰陽道、外来の思想が混ぜ込まれ、人の数ほど幾通りにも複雑に進化した結果、そのほんの一部に「稲作時に川は重要となり、川の神、水の神=蛇神信仰があった」と云われているだけである。あくまで、水の神は一部の神格に過ぎない。

 

ニューエージのスピリチュアル的ビジネスとは

 

1980年代「ニューエイジ」が流行し、神秘的な力やオルタナティヴな感性、宇宙や自然とのワンネスや「覚醒」を謳っていた。そこよりインド、チベットなどとシンクレティズム(繋げる)を行ったりする。これは、アメリカのカウンターカルチャー(60年代から70年代)というものから始まり、神智学(19世紀末くらい)にもルーツを持つ。

 

ニューエージの難点とは自分の立場をニューエージとは認識していなかったりする。また、自由志向、権力嫌いの特色を持ち、これを『歴史』に融合させてしまうと、たまに、正しくない歴史を流布したり「実在の氏族や末裔」についての風評被害を起こしながら、それを全て問題がないかのようにビジネス化したりを見受ける。故に、これは気をつけなければいけないと思う。都市伝説とは都市伝説であり、風説の流布、あるいはビジネスであり、真の歴史ではないというものが多すぎる。実在の氏族、末裔の関わる事を断言するのは嘘や誤りが多い。また、現在の彼らのビジネステーマは「水」である。


『蛇神』とは『死と再生』を司る


『蛇神』とは『死と再生』を司る「山神」というように説明したほうが、「大山津見神(おおやまづみ)」や娘神、「宇賀神」や「荒神」が『蛇神』なのである事がしっくりとくるはず。何故、大山津見神(おおやまづみ)の娘神の神大市比売(かむおほいちひめ)から、宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が生まれたか?などが、よくわかるだろう。水や海ではなく『山の神』が『蛇神』なのである。


山神が蛇神であるのが古代日本であり、それが日本古来の蛇神なのである。蛇神は「水神」ではないのだ。もしもこれを「水」や「海」からとするならそれは「外来の神」であり、古来の日本の蛇神を指していない。伝わるだろうか。稲荷神社は神の御使いとして白狐が座すが、そもそも白い狐は白い蛇であるから、稲荷神社には必ず白い蛇の像が社の中や隅にあったりするはずだ。それが蛇神は山神と繋がり、宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が祀られる社に白蛇の像がある繋がりなのである。

 


素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇退治』の神話

 


素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇退治』の神話は有名である。古代に、蛇は「水の精霊」とも表現され、稲作だけではなく農業での収穫の運命への影響が強い=水の影響を神格化した神となっていた。この際には、古代の巫女たちは神に『豊穣を祈る儀式(祈雨・雨乞い、きう、あまごい、祈止雨は雨を止める)をしたりしていた。

 


八岐大蛇伝説とは、本当は大自然の『神(山神)』である「大蛇(おろち)」「蛇神」に奉仕をして、人柱、人身御供存在となってきた『巫女』の有様を映し出していると考えている。また、八岐大蛇への人身御供(ひとみごくう)とは日本古代では村民たちというより『巫女』たちがその役目を成したきたと思う。古代の生贄儀式は「巫女」が捧げられたとされている。

 


古代にあった人柱、人身御供は「巫女」

 


例えば、穗積氏らの祖である、弟橘姫(おとたちばなひめ)が夫の倭建命東征の成功を祈り、嵐の荒波に身を投げ、命をかけての祈願を行ったという様な説話に同じくである。この様に、日本古代にあった人柱、人身御供とは、生贄とは異なる意味合いではあるが、古代日本では『命をかけて』のような意味での「人身御供(ひとみごくう)」という考え方が存在していた。

 


そして、古代の出雲信仰による出雲王国での人柱、人身御供をたてた豊穣儀礼、祭祀について描かれた伝承が、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇退治に映し出されていると筆者は捉えている。また、かつて、出雲の地が、越国(の民)により支配がなされていた事より、そこに繋げられる諸説がある。それはそれとして、八岐大蛇に捧げられるという人身御供については、川に立てられた人柱(実際に生きた人間が埋められた)のならわしの様なものが見えてくる気がする。

 


外来の海の民、水の信仰

 


「原始」の『蛇神』=『山神』であった時代に、海からきた人々により伝来した「外国からの蛇神信仰」は、「日本原始の蛇神」の信仰に融合を成して、今日までの蛇神信仰とは「水」という思想や形態を残してきたと考えている。採算に書いているが、原始には蛇神は山の神、水を含んだ全てを指す神であったのが、外来思想により「水」が強調されていく事になった。

 


古代には山神、その次に、その山からの一部にある水源、川、滝、などからの水神の信仰、何股にも分かれた大川の大蛇(おろち)の信仰が生まれ出てきた。日本古代、古来を考える際に、蛇神は水の神であると断言したり、固定概念を植え付けられないほうが、本来の日本の神々や自然との繋がりがよくわかると思う。『蛇神』は、「水の神」ではなく『山神』であった。

 


つづく