『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

百済初代王温祚王(おんそおう)と百済王温羅(うら)について

百済初代王温祚王(おんそおう、在位: 前18年 - 後28年)について。

 

百済初代王温祚王(おんそおう)は、源流を扶余(ふよ)に求める神話がある、氏は扶余または余。百済初代王温祚王(おんそおう、在位: 前18年 - 後28年)は、兄の沸流(ふっりゅう)が海岸に住み、弟の温祚(おんそ)は、負児岳(ふじたけ)の山側の河南に住んだ。

 

兄が「海側」に住むと海からの災害があり住みにくく、弟の「山側」では安泰であった。沸流(ふっりゅう)は自らの判断を恥じて、自決し、弟の温祚(おんそ)へ一族が合流した。(このくだりが日本神話の「海幸・山幸彦」の伝承とそっくりである


この兄弟らの父は高句麗(コグリョ)の王の鄒牟(すむ)、あるいは朱蒙(しゅもう、チュモン)とされ、諡(おくりな)は東明聖王(トンミョンソンワン)とされる。つまり、おくりな的に東明聖王はイコールで朱蒙なのである。wiki高句麗高句麗の簡単な歴史、まとめて頂いているようなのでリンクを貼り付けよう。

 

ja.wikipedia.org

 

””の部分はwikiの説明。

 

高句麗(こうくり、コグリョ、朝鮮語고구려紀元前1世紀頃 - 668年)または高麗(こま、こうらい、コリョ朝鮮語고려)は現在の大韓民国朝鮮民主主義人民共和国北部から満洲の南部にかけての地域に存在した国家。最盛期には朝鮮半島の大部分、中国東北部南部、ロシア沿海地方方の一部を支配した。朝鮮史の枠組みでは同時期に朝鮮半島南部に存在した百済新羅とともに朝鮮の三国時代を形成した一国とされる。

三国史記』の伝説によれば、初代王の朱蒙東明聖王)が紀元前37年高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古いと見られている。の支配から自立し、3世紀以降、魏晋南北朝時代の中国歴代王朝や夫余(扶余)、靺鞨百済新羅など周辺諸国と攻防を繰り広げ、5世紀には最盛期を迎えた。

高句麗東アジアで大きな影響力をもったが、589年に中国が統一され南北朝時代が終焉を迎えると、統一王朝のから繰り返し攻撃を受けた。高句麗は長らくこれに耐えたが、660年には百済が唐に滅ぼされ、新羅も唐と結んだことで南北から挟まれた。そして国内の内紛に乗じた唐・新羅の挟撃によって668年に滅ぼされ、唐に吸収されて安東都護府が設置された。-wiki

 

ここから筆者のまとめと追記。

 

三国時代を形成した一国が「高句麗」であり、高句麗の建国は「漢からの支配からの自立」の為である。よって、初代王の朱蒙東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建国したとされるがここより「古い」という可能性が含まれるとみられる。これは後述するが、「仏教が伝来した時期・公来した時期」と同じような事である。

 

日本では聖王といえば日本に仏教公伝(ぶっきょうこうでん)を進めた人物とは教科書にでてくるが、このところのかかわりはのちに取り上げようと思う。すなわちは、初代王の朱蒙東明聖王)が紀元前37年に「高句麗を建国した王」であり、その皇子らが「百済を建国」しているので、同族が朝鮮半島の当時の国々を制したとみられる。

 

上代の日本に6世紀半ばである欽明天皇期〚百済の聖王〛から古代日本(大和朝廷)への「仏教公伝」(国教)として認める(公)事を求めたことを指す(蘇我氏と共に)これも一般的には「仏教伝来」とされるも、仏教は6世紀以前より上古日本に既に渡っているのは明らかなので「区別」のために公伝・伝来」は分けて表現する。

 

これと同じであり、朱蒙高句麗を建国したとされる時期(紀元前37年以上前)からこの一族はその一帯にいたという事となるし、上代の日本にも6世紀半ば以前に「仏教」についてにしてももうすでに思想的に伝来をしていた。これを公式に「公来」させるように動いたという歴史事項が欽明天皇の御代ごろであるだけという事となる。上代日本には国交がある中で百済王も沢山日本列島に渡ってきていた白村江の戦い以前から)。

 

日本列島国内では、「物部氏蘇我氏」によっての<崇仏論争>があった。崇仏論争は「552年」とされ、百済聖明王からの「仏教公伝」を受けて、仏教信仰の推進派の蘇我稲目と、仏教排除派の物部尾輿が対立していったという内容にはなっており、われわれ日本人達は「百済聖明王(または聖王)」から仏教が持ち込まれたと習う。

 

しかし、

 

この血筋、朱蒙高句麗の初代の東明聖王)の一族が「漢の支配からの自立」の為に高句麗を建国して「朱蒙が東の聖王」となり、末子が高句麗王を継ぐ。そして、そのほかの皇子らが「百済」に辿り着き百済を建国(百済の王)している。

 

東明聖王は、高句麗の初代とされる王であり、東明王とも呼ばれる。『三国史記高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は高、諱は朱蒙(しゅもう)または鄒牟(すむ)、衆解とされる。『三国史記新羅本紀・文武王紀では中牟王、『日本書紀天智天皇紀では仲牟王と書かれている。-wiki

 

world.kbs.co.kr

 

好太王碑文」には鄒牟(すむ)王は「天帝の子、母は河伯(かわのかみ)の女郎(むすめ)」という話がある。すなわち、これは以下の様な話だ。つまりは、朱蒙は〚天帝〛の血筋と言いたいのである。朱蒙は〚天帝〛の血筋であり、母が「河伯(かわのかみ)の女郎(むすめ)」なのである。

 

(偶然にこれがヤマトタケル伝説にも繋がる「川上(かわかみ)」なのである。洞穴にに住んだ「熊襲の首領」川上梟帥(カワカミタケル)の川上=河伯(かわのかみ)である。)


『魏書(ぎしょ)』の高句麗伝によると、扶餘(夫余)(ふよ)王が「河伯の女」を室内に閉じ込めると、彼女は日光に感精して孕(はら)み、大卵を生んだ。「玉、卵」から生まれた男児朱蒙(しゅもう)であり、朱蒙とは善射(弓を上手に射る)の意味をもつ、という。

 

(そして、これにより、日本の伝承では、ヤマトタケルがクマソタケルを討伐する際に「クマソの娘」に手引きをさせてクマソタケルが討伐を成功させたという伝承があるのである)。

 

朱蒙は「天帝」ともされた。なぜなら天帝の子であった。「夫余(ふよ、プヨ)」の迫害を避け、「漢の支配」をも逃れて、東南に行き「高句麗」を建てた(時期は約前1世紀)。その朱蒙の息子、末の弟に高句麗を譲り、他の地に出て行った兄弟がいた。その残りの朱蒙の皇子(高句麗王の末の弟の兄)が〚百済〛の王ともなる。

 

そして、ここで登場する三人の兄弟の末の弟を除いた「残りの二人の兄弟」の「弟」である百済初代王温祚王(おんそおう、在位: 前18年 - 後28年)が百済建国をした。この王の名前からわかってくるだろうことであるが、これが吉備地方に入ってきていた百済王の「温羅(うら)」の祖であるのである。

 

また、女系側にあたる「河伯(かわのかみ)」が「クマソ」に繋がるので、当家は熊曽国(くまそ)の土豪古事記熊曾建(クマソタケル)でもあり、この熊曾建(クマソタケルの血筋)は肥後国(現熊本県)の球磨(くま)と大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)一帯」を治めた「王」なのである。

 

つまり、熊曾は球磨(くま)+曾於(そお)というのが正式な読み方ではある。YouTube界隈でこの内容がすり替えられたりするが、熊襲とは対立国からみた別称であり、本来の熊曽国の土豪古事記」熊曾建は、「肥後国(現熊本県)の球磨(くま)大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)一帯を治めた王」であり、討伐を受け「洞穴」に住んだのは「河伯の女(熊曽一族)」である。

 

もう一度書くが、

 

扶餘(夫余)(ふよ)王〛が〚河伯の女(熊曽一族)〛を閉じ込めたが、「太陽によって孕んで生まれたというのが朱蒙」であり、「太陽」から生まれた御子として特別な描かれ方がなされておるのは、それは「天帝の御子でもある」からであった。女系が「河伯(かわかみ・川上)の女」であり、これが河伯の女(熊曽一族)の一族である「川上猛」にも繋がる。朱蒙高句麗の建国者となったが、その皇子らが百済の建国者で王となった。すなわち、朱蒙の子が百済である。

 

また、「日光に感精して孕(はら)み」というくだりは、阿加留姫命(あかるひめのみこと)についての「日光感精神話」にも共通する。さらには、この阿加留姫命(あかるひめのみこと)についての「日光感精神話」は日本では「大隅(九州)」から発祥する。

 

つまりは、初めにいた熊曽(球磨・曽於)の一族に、後の世代の同族が大隅に入った。その名は現在では「秦(はた)」の氏族とも呼ばれる。われわれ、大隅熊曽(大隅隼人)の祖、河伯の女の一族である熊曽一族)にはこれが伝承される。

 

そして、この大隅の国肥後国(現熊本県)の球磨(くま)と大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)一帯を治めた「熊曽国の土豪古事記」熊曾建」の国には、宇佐神宮以前からの「八幡神信仰」の社がある。この一族同氏が、同族である事を認めたかで、混血し家族関係を築く。

 

阿加留姫命(あかるひめのみこと)についての「日光感精神話」の場合は、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。この赤い玉から変じた美女が阿加留姫命(あかるひめのみこと)であり、新羅の王子であった「天之日矛(あめのひぼこ)」は彼女を妻とした。

 

ある日、新羅王の天之日矛が激しく阿加流比売を罵った事があり、 阿加流比売は「祖国へ帰ります」と小舟で日本に戻り、現大阪の難波で暮したといわれる。阿加流比売の出自神話(赤玉誕生)の場合は、それ以前にあった朱蒙(男性)ではなく、阿加流比売(女性)となっている。

 

また、どちらも「日光感精神話」であり、直接的には「太陽神の御子」として「天帝の子(または子孫)」とはないものの、「好太王碑文」には朱蒙が天帝の子・「魏書」には〚扶餘(夫余、ふよ、プヨ)の王〛の子となっている。

 

阿加流比売の出自神話(赤玉誕生)は朱蒙誕生神話と共通しており、阿加流比売とは「太陽神の妻」=巫女と思われる。太陽の御子は「男」であり、「女」もあられるということか。もしくは巫女というものが太陽神を祀る「月」の様な存在なので「ミコ」である女性が描かれたか。

 

実は、これが現在の日本でも「天照」とは誰か・何かという論争となる

 

と筆者は思っている。 われわれでいえるのは太陽神を祀る巫女は女性であり「月」である。女性側は「」とみている。本来はそうであったが、巫女は男性も務める場合があった。すなわちは「祭祀」を誰が取り仕切るのかによる。それは古来は「巫女」だった。これについては、姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」の記事に綴る。

 

また、下光比売命大国主神多紀理毘売命の娘)、 または大国命の婿の天佐具売(天探女)と混同されたりするとの事がある。だから、ここまででも色々言いたいこともあるのだが、これに続いてを書いていく。


われわれの祖である百済王の温羅(うら、「鬼ノ城縁起」「桃太郎噺(ももたろう)」とは、この『百済(くだら)』の王である。名からするとわかるが、百済初代王温祚王(おんそおう)からの流れ、百済王温羅(うら)の事である。また、われわれはもともとが、熊曽国の土豪古事記」熊曾建(肥後国(現熊本県)の球磨(くま)と大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお、大隅と周辺)一帯を治めた)の一族の〚球磨+曾於=球を磨く曾於〛でもある。

 

われわれは元々ルーツが同じだとわかったので「混血」している。

 

吉備、岡山県あたりに山城を建てた。日本では「鬼ノ城縁起」に描かれているものが、温羅(うら、百済王)であり、製鉄の技術を日本にもたらしたと地元では嫌われていない。しかし、おとぎ話上では「桃太郎」の鬼のモデルで悪役とされている。

 

山上に山城を建てたのもこの温羅であり、朱蒙の子の兄の沸流(ふっりゅう)・弟の温祚(おんそ)の話でも「山」に国を築いたのが弟の温祚であり、温祚が「百済」の建国者となっている。

 

日本神話の山幸・海幸彦の話にも似ていると示唆したが、実は、神武東征の際に、五瀬(神倭伊波礼毘古の兄のいつせ)が「海」を渡り、弟の神倭伊波礼毘古(かむやまといわれひこ、のちの神武天皇)が「山」を渡る日本神話にとても似ているのである。

 

故に、日本神話は、朝鮮半島での出来事や神話を、「海佐知毘古・山佐知毘古(うみさちびこ・やまさちびこ)の話」として、またその話を『再編纂』したのだと筆者は見ている。そして、自分自身の祖先とも照らし合わせると”不思議”が見つかるのである。


古代倭国百済と親しく、古代倭国には多くの百済王、例えば百済からの王などが既に在留していた。さらに、白村江の戦いなどでは、百済の王子というのは日本での「人質」的に日本に留位していた、というのも伝承である。(後者は後世の話には思う)

 

吉備卜部氏の祖、妻は阿曽媛、吉備巫女王である。温羅の斬首を猿飼が行った後、稚武彦命(わかたけひこのみこと、 『日本書紀』稚武彦命」、『古事記』若日子建吉備津日子命、若建吉備津日子命」、他文献;若武彦命)が温羅の妻を娶り、吉備巫女王とし、温羅一族を平定した。


この子孫は、吉備氏となった。鴨別(かもわけ)は吉備氏血流からである。また、陰陽道開祖の吉備真備(きびのまきび)は、吉備氏である。

 

 

続く