『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

契丹古伝からの倭国大乱①日神オオヒルメと日孫と鏡

 

契丹古伝からの学び


契丹古伝の始まりは、満州奉天のラマ寺院に保管されていた古文書であり、明治38年に浜名寛祐が書写して発表したものが名付けられて「契丹古伝」と呼ばれている。全部で46章ある。


この始まりにあった古文書は、滅亡まもない渤海で成立したとされる。作者は耶律羽之、契丹国の分国の東丹国の役人とされる。編築者は渤海出身史官が多かったと推測される。


大まかな内容は、『東大神族(しうから、辰法固朗)』という古代先住民族と、漢(かん)という民族との抗争が複数文献を引用しつつ記されている。故に、漢民族の歴史書とは異なる事が記されていたりする。引用文献は、下記ではある。


耶摩駘記(やまとき)、神統志(しんとうし)、氏質都札(ししつさつ)賁弥国氏洲鑑(ひみこくししゅうかん)、泙美須銍(かみづち)、辰股大記(しんいんたいき)、西征須疏(せいせいそうしょ)、洲鮮記(しゅうせんき)、秘府録(びふろく)等。


この古文書、契丹古伝の中心は『東大神族(しうから、辰法固朗)』とされる古代民族である。東大神族(しうから)は、中国大陸では漢民族以前の先住民を指しており、中国の神話などの始祖である三皇五帝も東大神族(しうから)にルーツを持つと記されている。


そして、契丹古伝では契丹族は『日神(太陽神)の神族である』という主張が見られる。また、契丹古伝の第4章には東大神族(しうから、辰法固朗)の民を「タカラ、宝」と呼んだと記される。


個人的なノートとし…


筆者はこれに当家の裏家紋を連想した。子孫が方々へ広まり繁栄する意味がある七宝紋、その中央に十六葉菊紋である当家の裏家紋について、一族や民を「タカラ」と呼んでいる東大神族(しうから、辰法固朗)からの繋がりを感じた。契丹古伝からは学べる事があると思っている。


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◆日神と日祖と日孫


①裏珂旻(かがみ)の信仰


「神は光り輝く存在であり言葉では表しえない。ただその光輝く耀体を象ったものがある。それが鑑(鏡)である。よって鏡を日神体といいそれを『裏珂旻(かがみ)』とよんだ。」


②日神(かか)と可汗(カカム)


契丹民族、突豚、ウイグル、蒙古らは、君主を『可汗(カカム)』とした。君主は日神(かか)の末裔であり、日神をその身に宿すという敬称が可汗(カカム)の語源とされる。


③天之羅摩船(あまのかかみふね)


契丹古伝研究者からは、日本神話において、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗って出雲までやってきた『天之羅摩船(あまのかかみふね)』は、可汗の派遣した可汗船で船中に鏡を祀る舲日神船と解される。


④青銅鏡(せいどうきょう)


日神、裏珂旻(かがみ)の信仰を持つこの人々は、トーテムが青銅鏡であったと見られ、青銅文化時代以降を推定している。日本の三種の神器でその代表とされるのが『鏡』である事はこれに共通し、倭人が青銅鏡(せいどうきょう)をシンボルとした事からだと研究主張がある。


⑤アメノオオヒルメとアメミスサナミコ


「恭(うやうや)しく性(おもん)みるに、日祖の名はアノウシフウカルメである。シウミスサホナで禊ぎをされ、清悠の気が凝り固まるところに日孫が誕生した。」


契丹の日祖は、アメウシフウカルメという女神であり、カルメの力(裏)ヒ(日) と同義であるから『ヒルメ』とも読めるという。この女神は海辺で御子を産む。


その御子は日孫、神祖、アメミシウクシフスサダン(ナ)ミコとされた。日孫はカカミの御子、カモとよび、高天使はコマカケとよび、シウクシウは東大国皇(しうくほ)を意味した。そして、スサダン(ナ)ミコは『スサノヲ』、「檀君桓因の子桓雄」とも解される。


⑥スサ、ダン


スサについて、これはアケメネス朝ペルシャの王都スサ(Susa)とよく説明されているが、元々はエラム人の都であった。また、ダンについて、これはメソポタミアにあったダゴン神からで、その御子神であるというのが日孫の名に繋がる。


殷族、淮夷(わいい)、共に檀君についての神話があったとされ、殷の宗主国イシンの民もダゴン神を奉じた。この一族、日孫の一族は、万方に展開したと契丹古伝には記される。一族の名はシウカラ、民はタカラ、シウカラのシウはウルクや夏王の『禹』を表すという。


⑦スサダン(ナ)ミコ一族が日神族


つまりは、契丹古伝の中心である『東大神族(しうから、辰法固朗)』とされる古代民族は、スサダン(ナ)ミコは『スサノヲ』の一族とされ、契丹の日祖アメウシフウカルメ、アメノオオヒルメという女神の御子神とされた。


筆者はオオヒルメは、対馬信仰、天道信仰、天道日女(アメノミチヒメ)だともイメージをしている。また、大隅に降り立った母子神にも…重ねられなくない。その『母子』という事が繋がるのだ。


記紀では、天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)とするから、ここが繋がりにくいのと思う。さらに、神々をわれわれの祖とも言わない。


日本神話において、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗って出雲までやってきた『天之羅摩船(あまのかかみふね)』は、日祖末裔の君主である可汗(カカム)の派遣した船中に鏡を祀る船と解される。


少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子神、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御子神。相違がありすぎる点である。これは勢力争いなのか、バレぬ様な工作なのか。


⑥アノ、アヌ、アメ


前期ヴェーダ時代の五族の太陽を意味するアノ族(アヌ族)、メソポタミアでは天空神を意味するアヌを起源にし、アノ、アヌ、アメと呼ばれるとされている。(ちなみに、前者アノ族は十王戦争で敗北後に歴史上から一度消えている。)


日本の神々はよく「天(アメノ)」という呼び方が付く。この起源となるものは、ヴェーダ時代、メソポタミアの時代に遡るだろう。また、アノ族が敗北したという歴史について、天照族がスサノオ族との争いに一度敗北した説話に似る(このスサノオは日孫のスサダン(ナ)ミコではないとされる)。

 

契丹古伝での倭国大乱


契丹古伝での倭国大乱が始まった年は、約178年から183年と推定されている。契丹古伝上で、倭国大乱が始まるのが下記である。


「漢末」(=前漢が紀元前206年 - 8年まで、後漢が25年 - 220年まで、両漢の総称が「漢王朝」)


「霊の間」(=「桓靈の間」桓帝即位の西曆146年から霊帝退位の189年まで)


霊帝光和中」(=178年から183年の間)


霊帝光和中」(=178年から183年の間)を中心に参考として約178年から183年と推定がなされる。


また、この倭国大乱が終わる年に卑弥呼が立てられて大乱が平定される為、卑弥呼が即位したのは上記の同年という推測もなされている。


霊帝光和中の178年から183年の5年間が契丹古伝での『倭国大乱』とし、卑弥呼が立てられて大乱が平定されるまで、その5年間に起きたこととはどんな事なのだろうか。


①気候変動での小氷期による食糧難

②騎馬遊牧民鮮卑族倭人国を襲来

③公孫が卑弥呼を共立する


鮮卑族(せんぴ、Xiānbēi、紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族)』


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/鮮卑


後漢書烏桓鮮卑伝によると、東漢霊帝光和元年、西暦178年、冬に農耕や牧畜や狩猟では食糧を調達したりが難しくなった事態が記されているといわれる。


鮮卑の族長、檀石槐は、自ら鳥侯秦水を調べ、河川に魚を見つける。しかし、騎馬遊牧民である一族は漁が出来ない為、東の倭人国に襲来し、千戸ほど集まった倭人集落を取り、秦水の上に住まわせ、漁労に従事させ、鮮卑族の食糧難を乗り越えたと記されるとする。


この鮮卑族倭人国襲来は西暦178年と推測されており、その領有地は遼東北部→遼西方面に移動、東の遼河流域一体地区を占める。西は新疆ウイグル自治区周辺までを占めたという。(西暦170~180年代)


鮮卑族にとって、東にある倭国とは、東の遼東方面、干山々脈より東の地域、またはは鴨緑江(おうりょくこう)という河川下流域周辺ではないかといわれる。


契丹古伝によると、騎馬遊牧民族である鮮卑族倭人国を襲来とあるが、騎馬隊が隆路侵攻できる土地に当時の倭国は存在したという説が成り立つ。


そして、これは陸路で襲来できる朝鮮半島内で起きた出来事とされるだろう。すなわち、倭国倭国大乱と聞いて、それは日本国内であると思われる方々が大半であるとは思うのだが、それは実は『朝鮮』を舞台に起きた内容が語り継がれたという見方もあるのだ。


③公孫氏の卑弥呼


公孫度という人物は、養父の公孫域の後継ぎであり、遼東地域の鮮卑族や、高句麗、烏丸(うがん)を征した有力氏族の人物である。公孫氏の宗女(血縁)は、扶余王台(現在の中国東北部満洲にかつて存在した民族および国家)に嫁ぎ、婚姻により同盟が結ばれていたと見られる。


扶余についての地に記すも、夫余が建国する以前のその地には濊(わい)族が住み着いていたとされる。また、後に、匈奴(きょうど)の侵入にあったり、さまざまに学ぶべき点がある。

 

公孫氏とはこの扶余と対婚政策にて同盟関係を築いていたという事であるが、だからこそで、両国から「共立」できる王を立てようというとき、それを叶えられたのが女性である卑弥呼の以外にはなかったのだった。

 

何故なら、先述したように、公孫氏から扶余へ嫁いだ宗女(血縁)というのが卑弥呼だったのだが、そうすると、卑弥呼は公孫氏の血筋でありながら、同時に扶余の家系でもあった。両国から平等に『王を共立させる』には、卑弥呼という「女性」でしか叶わなかったのだ。


魏志夫餘伝」「隋書百済伝」から、公孫氏とはこの倭国大乱時代に遼東を治めていたが、先述の様に、鮮卑族の食糧難の為の倭人襲撃拉致から倭国大乱が続いた。故に、公孫氏や扶余は策として女王、卑弥呼を共立させたと推測がなされる。


「晋書四夷伝倭人条」によると「乃ち女子を立て王とした名は卑弥呼 宣帝が平らぐ公孫氏也」とあり、意味として、卑弥呼は公孫氏、又は、倭国は公孫氏である。すなわち、どちらにしても、卑弥呼であるからこそ倭国の後ろ盾には『公孫氏』『扶余』の二勢力があった。

 

魏の景初二年、西暦238年、魏の司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)が公孫淵(えん)を東梁水(とうりょうすい)で討ちとり、公孫氏は滅び、司馬により遼東平定と華北の統一を成し遂げられた。そこまでには公孫氏が遼東を治めたという事であった。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/公孫氏_(遼東)

 

魏志倭人伝』にて、農民達の起こした黄巾の乱の前後の倭国大乱から公孫氏が滅んだ後、卑弥呼が魏へ送っていた遣使や倭に関する記述は途絶えたとされる。公孫氏は、倭が中国本土へ朝貢する際に遮り、朝貢を代わりに受けていたかもしれない可能性が示唆されていたりする。


新撰姓氏録』では「常世連」は大陸から日本に帰化した氏族で公孫淵末裔と記述する。常世氏(とこよし)は、桓武平氏加納氏流の武家がある。燕王公孫淵の末裔を称す渡来系氏族赤染氏の一族。河内国大県郡を主な根拠地とし、同地に常世姫神社(大阪府八尾市)を祀るとされる。

 

フェニキアにルーツ

 

また、公孫氏は、よく漢民族とはみられたりされるも、実は公孫氏一族、卑弥呼フェニキアにルーツを持つといわれている。フェニキア人はインドネシア〜フィリピン、そして、日本列島にも渡来していたともされ、卑弥呼の「鬼道」とは「ヤーべ」、古代ユダヤ教に根差したものではないかとされる。


יהוה、ヤハウェ、Yahwehとは、旧約聖書にてモーゼに十戒を授けたヤーウェではある。牛神はバアルと呼ばれるが、バアル=シヴァ=ヤハウェだともいえる。そもそもヤハウェ=バアルは表裏一体でもあるから。破壊神シヴァ=牛神バアル、荒神・牛頭天皇・スサノヲでもある。

 

続く