『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)

比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)は、神道の神 (神道)であるのだが、あまり「認識」はなされていないと感じる。


神よ、神よというわりに、その分類や歴史をしっかりと「分別」出来る人々も少ない気はする。故に、このブログへ重要点を記していこうとは思う。


神社の祭神は『主祭神(しゅさいじん)』であり、主祭神の妃神(きさき、后、妻、関係深い女神)として、並んで祀られている女神が『比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)』とされる。比売大神とも記され、比咩神は古い記述の様である。


妃神(きさき、后、妻、関係深い女神)の中で最も有名なのは八幡神の妃神の比売大神であり、八幡神を祀る宇佐神宮(うさじんぐう、秦の祀る)等では『宗像三女神(沖津島姫・江ノ島姫・市杵島姫)』のこととしている。しかし、そもそも、八幡社(はちまんしゃ)の八幡神じたいも、その比売大神も、それがどういった神かは深い諸説がある。


八幡神応神天皇とされたりする諸説はあるが、実際にはこれはさらに長い説明が必要であるので、ここではカットし、別の記事に記述していこう。ここでは、筆者が前々から気にしているポイントを書いていこうとは思うのだ。結論からいうと、筆者は天児屋根命(あめのこやね)である。


われわれ当家(秦一門の吉備の卜部氏、うらべ)の祖神から見たら、後世の神で、婚姻・混血で家族になったのが天児屋根命(あめのこやね)という神であったとみられる。筆者は安曇磯良(あづみのいそら)であり、武内宿禰(たけのうちすくね)である見方の諸説に合点がいっている。中臣氏系図を見てである。


当家は卜部氏(うらべ)六代目であるが、中臣氏分家ではない為、元より秦一門であるが、卜部という宿禰(すくね)の古代祭祀一族とは、必ず、武内宿禰(たけのうちすくね)と交わるだろう。また、当家は吉備に留位した頃の卜部である為、吉備太秦で吉備氏や葛城氏、特に、鴨族(賀茂氏の古い呼び方)とは古くから家族でもある。


そういった当家を卜部からみた場合、当家吉備卜部氏(うらべ)とは、京都に移る卜部の前身である。武内宿禰の娘または妹(松尾社系図では妹)と交わる真根子命(まねこのみこと)という祖をもつ『伊岐・壱岐卜部』があるが、伊岐・壱岐卜部祖が真根子命であり、後に鴨族と共に大和や大和葛城、京都山城に移動した後の卜部の祖の呼び方というわけである。


鴨別は吉備の「桃太郎(ももたろう)」という五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと、後の吉備津彦命 きびつひこのみこと)と稚武彦命(わかたけひこ)と、地元大隈の民(当家は吉備の大隅熊襲秦氏末裔)や、鴨族たちの婚姻・混血した後の末裔、吉備氏の末裔である。天皇の笠が風にとばされた時に大猟の前兆であると言上して、賀佐(かさ)の名を賜り、笠氏祖となったという経緯もある氏族である。


鴨別(かもわけ、鴨別命、吉備鴨別、きび の かもわけ)は、吉備武彦の3男で、吉備御友別(みともわけ)の弟。『日本書紀』等で吉備氏一族の笠臣(笠氏)祖。この神は神功皇后の命で熊襲(くまそ)を征討した。吉備巡幸中の応神天皇が御友別の息子・兄弟に吉備国を分与し、波区芸県(はくぎのあがた)を授かった。すなわちは、鴨別は『吉備』からきた。


吉備というと岡山県だが、吉備には『かがみ』の『加賀』という地があり、こちらの『鴨神社』では、鴨別命(かもわけのみこと)=別雷命(わけいかづちのみこと)および品陀別天皇(ほんだわけすめらみこと)=応神天皇、足仲彦天皇(たらしなかつひこすめらにこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)の四柱の神々が祀られている。


明治3年『神社明細帳』勧請弘仁年中、昭和27年『神社明細帳』人皇第52代嵯峨天皇の御宇山城国愛宕郡賀茂大明神を勧請とされるのだが、遡る事に、『吉備温故秘録』等の江戸時代の書物で笠臣(笠国造)の始祖鴨別を祀っていたとされ、『備陽郡誌』は創造年代不詳のものであるそうだ。だいたいこのくだりに想像できるが、後世になり、歴史が変わった事だ。


かつては現在地から南方にある『字矢坂(やざこ)』の山の上に座した大明神屋敷に祀られていたが、明治末期になり『八幡宮』を合祀して、品陀別天皇、足仲彦天皇神功皇后の三柱を祭神として勧請され加えられたという事である。そもそも、鴨別命(かもわけのみこと)=別雷命(わけいかづちのみこと)は、「吉備氏」である。


この流れは、以前にどこかにコメントした「厳島神社はそもそも宗像三女神(沖津島姫・江ノ島姫・市杵島姫)を祀ってはいず、後から、比売神様が祭神と置き換えられた」という流れにつながる。厳島神社はそもそも占部の宗像ではなく、卜部が祀る神が祀られていた。厳島神社の表記も『伊都岐島』であった。すなわち、卜部氏(うらべ)の伊岐・壱岐の神である。


927年に編纂された延喜式厳島神社が主に大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)に祀ったのは『伊都岐島大明神』である。中宮明神、別若宮明神も祀られて、客人や相殿も現在は一変したが、全くもって違う神が祀られていた。われわれ当家は清盛と共に育った孫代の祖があったが、清盛時代も宗像神でなく伊岐・壱岐の神を祀った。現在の主祭神となった「宗像三女神」は戦国時代からではあるとみられている。


これはどういう事かというと、現在まで、歴史は上塗り、上塗りを繰り返し、神々を合わせ『混合』したという「真実」である。すなわち、世界史においても歴史は勝利した勢力が土着信仰を飲み込んで、融和させていったのと同じ事ではある。であるから、今、もう一度、きちんと学び直されたい方々へその真実を記して行く。厳島神社では『伊岐・壱岐の都の大神』が祀られ、卜部が祀った。


そもそもで、当家は『平家物語』上に南朝方平家武将家系として記されているが、われわれは白龍の白を司る源氏方、八幡神方の吉備の卜部氏(うらべ)六代目直系末裔であったが、保元の乱(1156年/保元1年)・平時の乱(1159年/平治1年)にて清盛方に女と孫代がもらわれた。後白河と当家女系の御子は忠盛が育て清盛と育ったから『清盛』についた。しかし、その御子は、卜部氏(うらべ)であり、清盛が建てた『厳島神社』では清盛時代も「伊岐・壱岐の都の神」が祀られて、卜部が祀った。


われわれは本家、伊勢し神宮神官は地名と末裔らが提出した大中臣氏本系帳、中臣氏本系帳、藤原氏本系帳、及び尊卑分脈からを根拠にも、『中臣氏(なかとみうじ・なかとみし)の分家』ではなく、われわれ卜部氏(うらべ)が元であると尊卑分脈に綴られる。また、中臣氏とは欽明天皇時代が初代とされ、黒田連の常盤が初代であると本系帳および尊卑分脈、複数書籍に残り、宮内庁にも登録される。


つまり、卜部氏(うらべ)とは卜部氏(うらべ)であり、伊岐・壱岐、その元の対馬、プラス、琉球(竜宮)にルーツを見つけることができる一族、氏族であり、また、太占(ふとまに)含む、骨卜(こつぼく)、亀卜(きぼく)をそもそも持ち込んだ、われわれ秦氏(はだし・はたうじ・はたし)と同族であると、筆者はみなしている。また、その信仰は、母子信仰に繋がり、われわれ大元の拠点である、『大隈』には、大隈一族(熊襲、つまり阿曽、阿宗、阿蘇の一族)と秦氏が融合され暮らしてあった。故に、近隣は『豊国』も存在する。


これは長い前説だったが、そもそもで、われわれは『火の国、日本』がルーツの日本人である。神話にも、火の神を斬り殺した剣先から滴るもの、血やらが『水の神』となっているだろう。すなわち、火の国、火の神の御子になるのが水の神である。それを塗り替える事は出来ない。日本列島は火山国であった。島が分かれ、国が分かれ、それぞれに暮らしていた。土着民や土着信仰を「上塗り」してきたのが正直なところで、それをまず認めてから、原初に立ち帰り、神の国神話を建て直した方が良いと筆者は思っている。


しかし、わかってない方は多い。そもそもだが、われわれ当家の祖はそもそも九州阿蘇山から広がった。弊立神宮に繋がっている祖である弊を立てた神である健磐龍命 (タケイワタツノミコト)は、阿蘇神社の主祭神で、阿蘇津姫命(あそつひめ)はその比売神である。このわれわれの祖神達は、婚姻したのだ。肥前、肥後という国々を建て、それから吉備の備前、備後という国々を建てた。


当家、秦一門の実名の別名を持つ城は、大隈と吉備にある。われわれはもともと大隈熊襲すなわち阿曽・阿宗・阿蘇の一族だったが、秦と大隈にて融合している。秦も東方へ向かい豊国も九州に建てている。ちょうど九州の肥前肥後→九州の秦国豊国→吉備の太秦備前備後→丹羽丹後の秦国豊国の流れは見えるかと思われる。丹羽の近くには吉備国である播磨もあり、河勝が逃れたのは身内の国だからである。


この流れの上に、何故、卜部氏(うらべ)が中臣氏(なかとみうじ・なかとみし)となるのか。いっこうに不明ではあり、そもそも、かつての邪馬台国とは「火」を扱う「鬼道」のクニでもある。神殿信仰は後から来た信仰であり、山などが御神体である古神道は現在の「中臣式神道」とは別だった。さらに、日本の殆どの神社はそもそもに秦氏(はだし・はたうじ・はたし)が建立した。秦神道物部神道中臣神道、と言ったようなものがあると「認識」頂きたい。


このように記す理由は、当時にあった『中臣氏の祭祀、政治の掌握』は、どうしても語らなければならない事だから、語る。それまでに古い歴史にあった、伊岐・壱岐対馬信仰は記紀により消され、斎部・忌部氏(いんべ)の祖のみが抜粋されて記され、さらにその後には忌部は「公民になった」事も記す。また、記紀によりては、土着信仰的な対馬高御魂命(たかみむすひ)系譜の天太玉命(あめのふとだまのみこと)のみが抜粋され、それに並ぶ天児屋根命(あめのこやね)が新世代の神となった。


この時代、本来は兄弟ではなかったとされる中大兄皇子のちの天智天皇と、海人族(あまひとぞく)に育てられたとされる大海人皇子のちの天武天皇があり、大化の改新(たいかのかいしん 645-650年)が行われて、天武天皇により身分制改革と記紀編纂が命じられている。『古事記』は国内向け、『日本書紀』は対外政策とされ、それぞれ『古事記』は和邇氏と近い稗田氏の稗田阿礼と多氏の太安万侶 (おおのやすまろ)ら、『日本書紀』は天武の皇子ら、尾張氏など複数豪族らが藤原氏勢力下で編纂がなされた。


この経緯の中、春日大社に祀られる主祭神ら、そのうちの天児屋根命(あめのこやね)の比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)についてを記すが、その神は『天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)』である。大日孁貴尊(アマテラス、天照大日孁尊、あまてらすおおひるめのみこと/天照大御神 あまてらすおおみかみ)を比売神としている神社もあると言われている。これは神功皇后武内宿禰御子神応神天皇と囁かれる諸説に繋がる。


何故ならば、天児屋根命(あめのこやね)は、磯良である武内宿禰と同一視もされており、その比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)は…という事に繋がっている。それについては、格言はまだしないが、天照大御神とは、「役職名」とされているので、大国主饒速日のように同じ「役職名」をもつ複数の神々(祖)達がおられた事と、それにより「同一視」されている神々を考察するのは大切ではある。


比売神(ひめのかみ、比売神、比売大神、比咩神)を

主祭神としている神社は日本各地にある。また、摂末社として祀られている事も多い。


比売神社 (奈良市) 南都鏡神社摂社

比売神社 (泉佐野市) 日根神社摂社

比売神社 丹生都比売神

姉倉比売神社 多治速比売神

鐸比古鐸比賣神社 村屋坐弥冨都比売神

伊和都比売神社 佐用比売神