『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

猿田彦大神と佐田彦大神と佐太大神①麻須羅神(ますらがみ)の御子神とは

当家、吉備卜部氏(うらべ)は、秦氏(はたうじ・はたし)に繋がる家系で、家系図にも記される。だから、秦氏伏見稲荷などに関わる事も書いていこうと思う。

 

伏見稲荷秦氏の祖神である『宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)』は祀られる。この神の配偶殿には『佐田彦大神(さたひこおおかみ)』が祀られる。

 

この神は、すなわち、伏見稲荷の上之社(かみのしゃ)の神、田中社の『田中神(たなかのかみ)』であるとされ、「猿田毘古(さるたひこ)」と同一神とされる。

 

すなわち、この神は、佐太神社の祭神の『佐太大神(さだのおおかみ)』でもあるとは言われる。また、佐太神社は、佐田彦とは表記していないのには理由がある。

 

佐太神社は、明治政府から「猿田彦」と祭神名を改める様に言われたのだが、その様にはしなかったそうである。

 

つまり、

 

佐田彦大神より以前には、佐太大神(さだのおおかみ)だったという事である。濁点は後に「格下げ」のために付けたと、竹内文書的な説があるが…

 

佐太神社の場合は、佐太大神(さだのおおかみ)をあくまではじめから祀っていた。後から、明治政府は、『猿田彦』にしたかった。

 

だから、「圧力」をかけたようだが、佐太神社が拒否をしたから『佐太大神(さだのおおかみ)』という神を祀る事を継続してる。

 

まとめると、

 

佐田彦大神佐太大神(さだのおおかみ)=田中神(たなかのかみ)であり、猿田毘古(さるたひこ、猿田彦)と同一神いう説が根強いようだ。

 

記紀神話佐田彦大神猿田彦大神としたいようであり、明治政府も記紀通り、佐田彦大神猿田彦大神佐太大神としたかったようだ。

 

しかし、

 

佐太神社により、佐田彦大神は、佐太大神(さだのおおかみ)であった事がわかる。また、出雲国風土記にも佐太大神(さだのおおかみ)と記される。

 

佐太大神(さだのおおかみ)と佐田彦大神(さたひこおおかみ)の違いはなんだろうか。猿田彦大神と同じ神にしたい動きは何だったのか。

 

まず簡単に記そうと思う。詳細は②以降になる。

 

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佐田彦大神伏見稲荷大社記紀

 

佐田彦大神と表記しているのは伏見稲荷大社記紀である。伏見稲荷で祀られる『稲荷三神(上社、中社、下社の神々)』の一柱である。

 

伏見稲荷神社の主祭神は『宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)』であり、佐田彦大神は配神として祀られている。

 

佐田彦大神は、

 

記紀神話を元にすると「猿田彦神(さるたひこ)」の別名と云われる。佐田彦大神猿田彦大神は「同神」とも云われているという事だ。

 

現在、佐田彦大神は、伏見稲荷の中社の祭神だが、元は、上之社の神であったそう。上之社は田中社、上之社の神は田中神(たなかのかみ)である。

 

まとめると、

 

伏見稲荷大社では、現在、宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)の配神が佐田彦大神だ。元は上之社の神「田中神(たなかのかみ)」という。

 

また、記紀では『佐田彦大神猿田彦大神』であるが、実際はどうなのだろうか。佐太神社佐太大神猿田彦大神とはしなかった理由は何か。

 

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佐太大神佐太神社出雲国風土記

 

佐太大神(さだのおおかみ)と記すのは、佐太神社出雲国風土記である。島根県佐太神社(さだじんじゃ)は佐太大神を祭神としてきた。

 

明治時代に明治政府から『佐太大神(さだのおおかみ)』を『猿田彦大神(さるたひこおおかみ)』にするように改名を求められた。

 

しかし、佐太神社はこれを「拒否」されたそうだ。つまり、元々『佐太大神(さだのおおかみ)』を祀り、そのまま継続される。

 

出雲国風土記では、

 

佐太大神(さだのおおかみ)が記されており、支佐加比売命(きさかひめのみこと)の御子神と記されている。大国主命を救った神である。

 

佐太大神(さだのおおかみ)の誕生地は「カカ」つまり輝くを表す「加賀」である。カカは蛇を表すそうだが、ここでは輝くの意味だそう。

 

また、出雲国風土記では、神魂命(かみむすひ)が佐太大神(さだのおおかみ)の祖父、父は麻須羅神(ますらがみ)とされている。

 

まとめると、

 

逆に…元々、佐田彦大神佐太大神(さだのおおかみ)の可能性があり、明治政府は佐太大神(さだのおおかみ)を猿田彦大神に置き換えたかった。

 

何の理由からか?

 

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佐太大神の父神の麻須羅神

 

出雲国風土記で、佐太大神(さだのおおかみ)の父神とされる『麻須羅神(ますらがみ)』は、太秦広隆寺、大酒神社の牛祭に似た神があるという。

 

麻須羅神(ますらがみ)は、ミトラ神と似ているという諸説があり、佐太大神(さだのおおかみ)自体もミトラ神に同じく洞窟に生まれたとされる。

 

麻須羅神(ますらがみ)に似た神が登場する太秦広隆寺秦氏(はだし・はたうじ・はたし)の地にあり、大酒神社も同氏のまつわる社である。

 

麻須羅神(ますらがみ)については「異国の神」なのであろうか、その様な形容表現もなされ、秦氏の関わりも見える。詳細も②以降に記す事とする。

 

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猿田彦大神(さるたひこおおかみ)

 

また、ここで、猿田彦大神の話になるが、記紀猿田彦は赤ら顔の天狗と形容され、異国風である事を強調する為に記紀に記される様に見受けられる。

 

猿田彦大神は、最期は、伊勢で比良夫貝(ひらぶがい)に手を挟まれて死したとされる。皮肉だが、この『貝』について思う事がある。

 

まず…

 

猿田彦大神は、佐田彦大神とされ、岐神(くなどのかみ)と宰姫(さいひめ)の御子神と云われている。出雲系神社にも祀られている。

 

しかし、

 

出雲の神の大国主神(おおくにぬしのかみ)は、八十神(やそがみ)により、二度も殺害されかけているが、『貝』の神々に命を二度も救われている。

 

なのに、同じ出雲の神、岐神(くなどのかみ)の御子神とも云われる猿田彦大神は『貝』により死している。

 

さらに、

 

先述した佐太神社佐太大神(さだのおおかみ)は『出雲国風土記』によれば、大国主命の命を救った支佐加比売命(きさかひめのみこと)の御子神だ。

 

不思議なことに、

 

猿田彦大神佐太大神なのであるなら、何故、母の支佐加比売命(きさかひめのみこと)は、大国主命は救って御子神は救わなかったのだろうか?

 

佐太大神猿田彦大神であるなら、何故、支佐加比売命(きさかひめのみこと)は、大国主命をは救い、我が子は救わないのだろうかという意味だ。

 

しかも、猿田彦大神は『貝』により死している…

 

平田篤胤佐太大神(さだのおおかみ)は猿田彦神と同一と見なし、現在の佐太神社も踏襲している」

 

などと、インターネットでは吹聴がなされているも、非常に違和感がある。『貝』により死した猿田彦が支佐加比売命(きさかひめのみこと)の子か?

 

また、

 

比良夫貝(ひらぶがい)というのは、何かの暗号に思う。これも今後に記していく。

 

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◆石見神楽の八衢(やちまた)

 

石見神楽の「八衢(やちまた)」でも、佐田彦大神や、佐太大神(さだのおおかみ)は、猿田彦大神と「同神」とされるそうだ。

 

元出雲とも云われる出雲井神社の祭神は『佐田彦大神(さたひこおおかみ)』であるが、社説には「八衢(やちまた)」という名があった。

 

それを思い出したが、これは別途に記そう。

 

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続く