『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

古代日本列島の〚姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制〛~基礎

姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制とは

 

姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」

 

それは古代日本の「祭祀女王(ヒメ)と政務王(ヒコ)」の制度である。

 

弥生時代後期~古墳時代前期(紀元前1世紀から紀元後4世紀)にかけて日本列島各地で成立していたと思われる「(男女別の)共立的統治形態」を指すと把握している。

主に「農耕的」なものにまつわる「女子」の集団の長(頭首・リーダー)を『ヒメ』とされており、一方では、「軍事的」な面に関してまつわる「男子」の集団の長(頭首・リーダー)を『ヒコ』とされたと考えられており、【姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制】=「共立的統治形態」が唱えられた。

 

当初のこの姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」の概念は、1938年に、高群 逸枝(たかむれ いつえ、本名:イツエ、1894年(明治27年)1月18日 - 1964年(昭和39年)6月7日)熊本県出身の日本の詩人・民俗学者・日本の「女性史学」の創設者によって初めて唱えられたとされる。女性史研究、母系制の研究、招婿婚の研究などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した人物である。

高松氏によると「古代の祭治形式にあつては、神宣を体する”姫”の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二職を主長とする制度が生じたのである」。「姫彦統治制度にあつては、姫神が神事を、彦神が政事を分掌するが、この二神が一体となって即ちここに祭政一体の統治が行われる」。

 

高群逸枝『母系制の研究』理論社、1955年(初版1938年)、69, 362ページ、参照 倉塚曄子『巫女の文化』(平凡社1979)

 

筆者の見る限りだけでは、いつも参考にする「国学院大学」のデータベースには姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」についてのデータがなく、同大学、宮内庁などはこれについてどのような見解があったりするのか?など、直接聞きたいと思ったりしている。しかしながら、この「姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制」・「共立的統治形態」が古代の日本列島にはあった主張に関しては各種「口伝・家伝・風土記」などで多くに言及されているのは多々見受けてはいる。

 

また、だいたいに伝え聞くところは男女がセット竹内文献でもそうであり)、または「王と副王・二王制度」(古代出雲口伝などをはじめに)があったのはわかる。また、邪馬台国卑弥呼の兄弟(男女)の制度もこれにあたり、必ずしも「配偶者」でもなく「血縁紐帯」を基軸にしており、同母の兄弟や姉妹は特に繋がりが強いと考えられたからと云われる。姉妹は兄弟を守護する霊的力があると信仰された沖縄県のおなり信仰など)事などがこれに繋がるそうである。

 

この辺りについては今現在『公式(表立って)』での説明は無いようだが、姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」の説を信頼する人々は少なくない。それは地元や末裔、家伝・口伝・社説で伝聞されてきた事での根幹となっていたりする。

 

筆者が簡単にだが調べてみたところ、『 旧皇室典範(旧典範)』によっての「制定前」の制度では、天皇とは、「男子であることの要件はなく、女子にも皇位継承資格があり、古代に 8 代 6 人、近世に 2 人の女性天皇が在位」という記載皇室典範にみられた。そして、近い世代の女性天皇というはいずれも我が子「皇子」に天皇という地位の「譲位すること(つなぎ)」を前提にして践祚(せんそ)したという事が古代史研究家で推論されている。

 

例えば、皇極(斉明)極天皇がその一人とされる。第35代皇極天皇(在位642~645)は、推古天皇の1代をとばして再度即位した、第37代斉明天皇(在位655~661)でもある(二回即位することを「重祚(ちょうそ)」という)。つまり、この女性天皇とは、舒明天皇の皇后であり、天智天皇・間人皇女・天武天皇の母である。この近代の女性天皇という意味合いに比べ、沖縄のおなり信仰および邪馬台国伝承では女性天皇がむしろ中心である「シャーマニズム(巫女制度)」の考え方が見られると思う。

 

冒頭に述べた通りに、古代日本では、祭祀的・農耕従事などをする姫・ヒメ(ミコ、トベ)と、軍事的な戦争等での従事をする彦・ヒコ(タケル、ワケ、ネ)という、姫彦統治(ヒメ・ヒコ)=「共立的統治」が行われていた。言葉を変えると「分業的(職を分掌される)」にで、ぞれぞれの「一対」が「一定の地域ごと」に国々を統治していた様に考えられている。ゆえに、上古日本列島(未だ、現在の国号「日本」になる以前の上古日本)では、それぞれの地域を統治してきた【八百万の神】が一か所「古代出雲」のあった場所に集まり「神在り月・神無し月」があったりすると考えられている

 

さらに、古い歴史をたどれば、モーゼの水玉、五色神面が奉斎される「幣立神宮の五色神祭:世界の神々が集まり人類の幸福、世界の平和を祈る儀式」熊本県山都(やまと)町にある幣立(へいたて)神宮にはあり、同社社説・御由緒には「幣立神宮は民族の起こりであった」とされている。熊本・弊立神宮の「主祭神は神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)で、天照大御神阿蘇十二神をはじめとした複数の神々」が祀られている。

 

これらの小さな国々での「共生(分割統治)」を『諸外国に打ち勝てるために1つにまとめる』という大儀上に、天皇家の東征・平定がなされ、小さな国々が1つになされたという認識をする。


・祭祀的・農耕従事などをする姫・ヒメ(ミコ、トベ)
・軍事的な戦争等での従事をする彦・ヒコ(タケル、ワケ、ネ)

 

故に、古代には、ミコ=トベであり、タケル・ワケ・ネのつくものもそうだが、大和王朝以前の「称号」を神名・名に残されている事が考えられる。ヤマトタケル日本武尊/倭建命/小碓尊)が東征を行って倒したのは熊曾建(くまそたける、熊曾建、猛/梟帥、八十梟帥/やそたける、曾は曾の旧。弟に川上健/かわかみたける河伯梟帥)の兄弟であったり、古代出雲にはフルネ兄弟もみられる。

 

この熊曾/熊曾という熊曾建が「肥後国(現熊本県)の球磨(くま)」+「大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)」を治めたのが由来とする国々でも〚共立統治形態〛があり、当の日本最古である熊本の幣立神宮の御祭神の形態にもそれが現れる。再度の記述になるが、熊本・弊立神宮の「主祭神神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)で、天照大御神阿蘇十二神をはじめとした複数の神々でもある。


姫彦統治制度(ヒメ・ヒコ)制=「共立的統治形態」については、例えば、地域別に表してみると①宇佐地方(古事記には神倭伊波禮毘古命と伊呂兄五瀬命の来訪時に「豊国の宇沙」の土着の民と表現されている)には宇沙津比古(うさつひこ)と宇沙津比賣(うさつひめ)、②阿蘇地方(アイヌ語の「火を吐く山」とされ、肥後国風土記には肥後の国、閼宗:アソの県:さと)には阿蘇津彦(アソツヒコ)・阿蘇津姫(アソツヒメ)、③若狭地方(延喜式若狭国一の宮に二神を祀る神社、二神は当初「白石の里」に降臨、創祀の社は白石神社)には若狭彦(ワカサヒコ)・若狭姫(ワカサヒメ)があり、

 

続いて、④相模地方(寒川神社の祭神である二神、讃岐のほうでは「イワナガ姫」と共に祀られるも記紀には登場しない神々)寒川比古命(サムカワヒコ)・寒川比女命(サムカワヒメ)、⑤大和地方( 延喜式、竜田比古竜田比女神社の祭神となる二神。)には竜田比古(「風神」のタッタヒコ)・ 竜田比女(タッタヒメ)、⑥伊賀地方(「伊賀国風土記逸文伊賀国の名前は伊賀津姫に由来する事が述べられ、崇神天皇の皇女イガヒメは、イガツヒメとの関係が指摘される)には伊賀津彦(イガツヒコ)と 伊賀津姫(イガツヒメ)、⑦紀国(天道根命を初代國造五代目、日本書紀や和歌山伝承にて神武東征と戦った)には名草彥(なぐさひこ)・名草戸詳(なぐさとべ 、紀元前663年6月、女性)

 

続いて、⑧芸都(きつ)地方(常陸国、『常陸国風土記』にある「芸都(きつ)の里」、)には芸都彦(キツビコ)・芸都姫(キツビメ)、正確には寸津ヒ古(キツヒコ、ヒは田へんに比)・寸津ヒ売(キツヒメ、ヒは田へんに比)と思われる。芸都彦では出てこない。こちらについて詳細を示すと、地元伝承にては、都知久母(ツチクモ、土蜘蛛、穴倉に住まう土雲)または夜都賀波岐(ヤツカハギ)、その国巣(クニス、国栖)である、山の佐伯、野の佐伯とされる。国栖(くにす)の情報は国学院データベースにもあるので参照を是非頂きたい。こちらがリンク。

https://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=3195

 

筆者の個人的な考えには、国学院大学データベースでも「万葉集の研究上」にどうしてもこの「国栖」=「栗栖」に触れなければいけない話題にはなっているところなので、同大学のデータベースにヒメヒコ制の説明がないが、国栖についての説明の記載はあるのだと思われる。

 

この様に「男女」が土着の長(頭首・リーダー)となり治めてきたという話題で出てくる「ヒメヒコ」達は上記が例なのだが、1つ、確か下記の重要な「女神」「ミコ」(女性)にも配偶した男長がいた気がするが、対になる男神・統治王が誰なのかを明確に公式に調べられないという点がある。一旦、誰のことなのかを書く。

 

豊徵入姫八咫鏡を宮中から出す)。記紀によれば第10代崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖;みまきいりひこいにえ、御肇国天皇;はつくにしらすすめらみこと)と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ、遠津年魚目目微比売)との〚皇女〛がこの豊徵入姫であるが、豊鍬入姫命と倭姫命伊勢神宮斎宮の起源に求められる。しかし、何の制度上かで「最初の斎宮は天武皇女の大来皇女」とはされているという謎もある。

 

同母兄に豊城入彦命(とよきいりひこのみこと、豊木入日子命、上毛野氏および下毛野氏の祖、『日本書紀』「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』「豊木入日子命」)がある。この「トヨ」とされる皇女は「ミコ」でもあるが、共に、もしかすると「祭祀女王(ヒメ)」と「政務王(ヒコ)」としてもう一人の男王となる人物がいたとは思われるが、それは、同母兄の豊城入彦命(豊木入日子命)という名で説明はなかった様な気がする。(それは豊鍬入姫命と倭姫命伊勢神宮の「斎宮」の起源に求められるからかもしれない。)

 

そもそも「ミマキ」は「ヒミコ(卑弥呼、日巫女)」という祭祀王、巫女の王の対(弟)であるとも邪馬台国伝承からは思われるのであるが、これによって、崇神天皇の和風の諡号には再三に注視なされる。第十代天皇崇神の和風諡号「みまきいりひこ」であり、実は、妃には、御間城姫(みまきひめ、孝元天皇皇孫。父は”大彦命”;ナガスネヒコも大彦。垂仁天皇彦五十狭茅命、国方姫命、千千衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命の母とされる。)である。

 

もしも、だが、ミマキがヒミコの弟であり、その配偶者はミマキヒメという大彦命の娘=『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ、先代舊事本紀)などに出てくる「長髄彦(ながすねひこ)」の娘となる場合に、かつての大和を治めた長髄彦(ながすねひこ)の娘が、第十代天皇崇神の和風諡号「みまきいりひこ」の后?という疑問にさしあたった事がある。そもそもで、その疑問(ミマキヒメの存在)がぬぐえてはいない。

 

そして、御子の中の第十一代垂仁天皇の和風諡号「いくめいりひこ、いくめ」である。イクメの妃はあの  〚 狭穂姫命(開化天皇皇孫)〛と、〚日葉酢媛命(同じく開化天皇皇曾孫)〛であるつまり、「姉妹」である。日葉酢媛命の御子は景行天皇(妃は播磨稲日大郎姫/孝霊天皇皇孫、八坂入媛命/崇神天皇皇孫)である。筆者の注視しているのは、この〚狭穂姫命(さほびめのみこと、開化天皇皇孫)〛との御子は誉津別命(ほむつわけのみこと)でのほうで、同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物であった事である。

 

狭穂姫命(さほびめのみこと、開化天皇皇孫)同母兄の狭穂彦王(沙本毘古)に夫の垂仁天皇を殺害する様に言われるも、御子を身ごもっているのもあって、それが出来ず、結局的に同母兄の狭穂彦王(沙本毘古)を選んで郷に帰ってしまう。そして、反逆を起こした事から垂仁に訴追され、稲城で親族もろとも焼かれる火中でその御子が生まれたという事ではある。火中に焼かれながら御子を産むのはイザナミもそうであり、コノハナサクヤもそうであった。兄妹、これにしても伝承が多い。

 

(また、「ヒミコとミマキ」もそうだが「ナシメ」という老人・人物もいるようだ。まるで長髄彦/ながすねひこや、武内宿禰/たけしのうちすくね、などのイメージではある。)

 

アジスキタカヒコネとシタテルヒメにしてもそうだった。そもそも日本の伝承は「事実に基づいた伝承の繰り返し」と「時系列」がバラバラに思えたりする点がある。そして、もともとにある伝承を繰り返している様にも思われる。

 

この城にて焼け滅んでしまったとされる狭穂姫命(さほひめのみこと、開化天皇皇孫、日子坐王の女、皇子誉津別命・ほむつわけのみこと/本牟智和気御子の生母)の御子は「品牟津和気命(ほむちわけのみこと)」とされ、『尾張国風土記逸文品津別皇子と表記される。また、通常は、応神天皇誉田別命とされる。

 

我々は、熊曾/熊曾(熊曾建が「肥後国(現熊本県)の球磨(くま)」+「大隅国(現鹿児島県)の曾於(そお)」を治めたのが由来)の民であり、同時に秦氏一門であるのだが、秦氏はもともと「品部」と呼ばれた「文化伝来」を行った民であり、供造/とものみやつこ、側近でもあった。さらには、われわれは秦一門だが「卜部氏(うらべし、吉備地方出自)」と申し、「トベ(姫方)」を表した「トベ=卜部」という伝承が当家にある。

 

何故これをはさんで書いたのかは、応神天皇誉田別尊)は「百済経由の秦氏」を大切にしたからであり、吉備の王であるからである。

 

応神天皇誉田別尊を君主とすることを認めなかったというのは、異母兄の麛坂王・忍熊王とされ、それについては皇后と武内宿禰に平定されたと云われる。皇太后となった母が摂政をとり、その後に応神天皇誉田別尊は三歳(四歳)で太子となったとされている。この母というのは一般認識には、神功皇后とはなされる。

 

先述しているのだが、再度、

 

尾張国風土記逸文で品津別皇子は垂仁天皇の第一皇子、母は皇后である狭穂毘売命(さほびめのみこと、日子坐王の女とされている)。上宮記』の逸文継体天皇の先祖=応神天皇誉田別命)とされる人物に「凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)」の名がある。狭穂毘売命(さほびめのみこと)とは、日子坐王の女とされている。謎が謎に繋がる謎でもある。

そして、神功皇后神話はあくまで「神話(架空)」とされる説も根強い。

 

父は大彦命である御間城姫(みまきひめ)からの血筋も重要ではある。

 

ja.wikipedia.org

 

これについてはまた今後に追記する。

 

その他、豊玉姫「姉」と彦火火出見存(山幸彦)「弟」玉依姫「妹」と鶏草真不合命(神武天皇の父とされる)、そして、比売多多良伊須気余理比売神武天皇「ヒメ(ミコ)」と「ヒコ」が対になっている様には思われるし、倭迹迹日百襲姬命も「ミコ」であり大物主神(神格化された神だが)の妻となってはある。そしてこのについては考察する意味が非常にある。