『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

分れた出雲の系譜と饒速日命の妻と子供たち①前説

阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)=事代主の役職につく

 

事代主神とは=大物主大神である

 

事代主の妹とは=高照姫といわれる

 

事代主の妃は=高照姫とされる

 

阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)も事代主も「妹」と婚姻関係があることもあり、諸説あるように筆者としても同一としてみている。

 

妹との禁断の婚姻関係がみられるとされるのは、阿遅鉏高日子根神をはじめ、事代主、そして、天照大御神素戔嗚尊との誓約・宇気比(うけい)に関してもイコール、兄妹または姉弟姻の意味合いであるともみえる。

 

誓約・宇気比(うけい)とは実際には?

 

現代とは異なり、古代は人口も少ない。「血統の始まり」となる為に「DNA/血統を継ぐために」でこういった近親婚的な形態も多少はあったのかとは思う。そこから段々と人々が増え、子孫が増え、枝分かれしたから現在の様に近親交配はしないでもよくなってる。できれば、DNAが健やかに続く為にはしない方が良い事だとも思う。

 

初代より、徐々に、成立していった各氏族が、それぞれの氏族同士の婚姻を「和合」などの意味合いをもって、家族をそれぞれにも築いていったと考えてはいる。けれど、出所は同じにはなるものだ。われわれは人類皆兄弟というが、物理的には、そのように筆者は考えたりする。交配を行い、子孫は繁栄するからである。これは何ら、批判的な意見ではないとも思っている。

 

日本は祖霊を祀り、氏神を祀り、信仰する。日本の神々は八百万であり、世の中のどの信仰の神々よりも日本の神は人に近いのだと思う。だからこそ、われわれは『神仏習合』にも柔軟に対応ができたと思う。日本はもともと祖霊を大切に祀り、氏神を信じ、アミニズムから万物に神が宿り、他者を受け入れて取り入れていく精神性があった。

 

 

さて、前置きや補足が長くなったが、話を戻す。

 

 

阿遅鉏高日子根神の妹=下照姫(したてるひめ)

 

饒速日大年神(おおとしのかみ)

 

大年神(おおとしのかみ)の妃=下照姫

 

事代主の妃=高照光姫(たかてるひめ)

 

下照姫が子を持ち高照姫になったともいわれる

 

 

元出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)の妹とされる下照姫(したてるひめ)は、同じく元出雲の大年神(おおとしのかみ)=饒速日尊の妃になったとはされる。

 

饒速日尊とは、事代主同様に役職名とされ、本名がやはり大年神(おおとしのかみ)とみられる。『古事記素戔嗚尊神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の御子が大年神(おおとしのかみ)とされる。(大歳は別の意味合いあり)

 

大年神(おおとしのかみ)の妹には秦氏氏神ともされる 宇迦之御魂神(うかのみたま)がみられる。これにより神大市比売(かむおおいちひめ)には猶太、イスラエルとの関わりが説かれる。神大市比売(かむおほいちひめ)じたい、大山津見神の娘神であり秦氏が関係するとされる。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の妻になる櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)の親、足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)の親神も大山津見神(おおやまづみ)である。また、  伊邪那岐命(いざなぎのみこと、伊弉諾尊)と伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉弥)の間の子が大山津見(おおやまつみ)である。

 

饒速日尊は『日本書紀』上では天孫族瓊瓊杵尊ニニギノミコト)の兄と描かれてはいる。『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と呼ばれており、天火明命アメノホアカリ)と同一の神とする。

 

新撰姓氏録』においての饒速日は、天神(高天原出身、皇統ではない)である。天火明命アメノホアカリ)とは天孫天照大神の孫)と呼ばれる。この天火明命アメノホアカリ)は、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと、天忍穗耳命)と栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)の御子である。

 

すなわち、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと、天忍穗耳命)と、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、イコール、萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)の御子神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)=饒速日尊(にぎはやひのみこと)という。

 

天皇の祖、天照大御神の孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の兄が饒速日尊(にぎはやひのみこと)で、天火明命アメノホアカリ)である。父神は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊という。

 

このように、饒速日天火明命というが、実は、筆者は両者を『別』と考えていたりもする。

 

実際はどうなのだろうか。

 

饒速日尊には、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)より以前に天降った説があり、『先代旧事本紀』巻第三天神本紀には、高皇産霊尊からの「防衛(ふせぎまもり)」として三十二柱の随伴させた神があるとされる。この三十二柱はのちに記事にする。

 

三十二柱のうちの人柱が、当家の血筋である卜部氏(うらべ)の祖とされる。 天月神命(あめのつきのみたまのみこと)は、卜部氏(うらべ)のうちの伊岐・壱岐卜部の祖とされている。卜部の祖は実は、『対馬信仰の神』である。記紀成立以前に、対馬に信じられた神だ。

 

尾張連や津守連の祖の天村雲命(あめのむらくものみこと)の父神の高倉下(タカクラジ)もこの三十二柱のうちの一柱である。饒速日は天降った際には天磐船に乗って磐船神社大阪府)に降りたったとされる。しかし、饒速日降臨地は別の場所である事も数々諸説される。

 

 

 

阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)

 

國學院データベースによると、この神名のアヂは可美(ウマシ)の意の美称、スキは鉏、タカヒコネは敬称、農具を神格化した名という。






出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、同じく元出雲の大年神(おおとしのかみ)、すなわちヤマトを制した饒速日尊(にぎはやひのみこと)に妹下照姫(したてるひめ)を娶らせ大物主神(おおものぬしのかみ)となったという。

 

出雲の大年神(おおとしのかみ)も素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜であるがヤマトを制して饒速日尊と呼ばれた。下照姫は「大歳=饒速日」に嫁いだ事となる。

 

下照姫は素戔嗚尊の系譜「大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命を娶して生める子は阿遅鉏高日子根神。次に妹高比売命。亦の名は下光比売命」とある。

 

 天若日子神話には「下照比売」とある。天の神を下へと下らせるほど魅力的な意味をこめて「天(あま)さかる~」と呼ばれたともされている。

 

売許曽神という神があるが『古事記』で阿加流比売神(あかるひめかみ)と記され、天之日矛(あまひぼこ)の妻であった。夫に罵られ逃げ渡り比売許曽神社に鎮座したともされる。

 

この阿加流比売神(あかるひめかみ)が下照姫と同一とされたりもする。比売許曽神を太陽神の妻と捉え、別名下照比売の名の意と通じるものがあるとも解されているという。

 

一説で、御歳神(みとしのかみ)をもうけた。一説に、子をもうけて「高照姫」となったとされる。下照姫の考察はまた別の機会にもうけたいと思う。



出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、父は大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、大国主命素戔嗚尊の系譜である。ある日、妹下照姫(したてるひめ)の元夫、天津神系譜の天若日子(あめのわかひこ、天稚彦)の葬儀の時に出雲から姿を消した。

 

阿遅鉏高日子根神は妹下照姫(したてるひめ)を連れてヤマトへ向かったようだ。そこで出雲を出てヤマトを制していた大年神(おおとしのかみ)饒速日尊に近づき、妹下照姫(したてるひめ)と婚姻をさせた。そして、自らは玉依姫(たまよりひめ)に近づいた。

 

このは、玉依姫命とは、『日本書紀』第9段第7のみに登場し「高皇産霊尊の娘万幡姫の娘。天忍骨命の妃で、天之杵火々置瀬尊の母。」とされる。『日向神話』では海童の娘とされ、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の妻で、神武天皇の母である。

 

玉依姫玉櫛媛とも記され、三島溝橛耳神(陶津耳)の娘、事代主神大物主大神)の妻、媛蹈鞴五十鈴媛命神武天皇の皇后)の母ともされる。つまり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の亡き後に阿遅鉏高日子根神が近づき、婚姻している。

 

ちなみに、神武天皇の本名は、若御毛沼(わかみけぬ)命である。始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、のちに「神武天皇(じんむてんのう)」と諡された。神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)とも呼ばれる。



出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)とは、出雲を出てからは「政略結婚」を行った。妹下照姫(したてるひめ)を大歳=饒速日尊に嫁がせ、その上に、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)の亡き後に妻と婚姻し、神武天皇の父となっている。

 

そこで八咫烏(やたがらす)が生まれた。出雲の阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、迦毛大御神(かものおおみかみ)とされ、最上神「大御神(おおみかみ)」賀茂氏の祖とされる。同時に大物主神(おおものぬしのかみ)三輪氏・賀茂氏の祖とされる。

 

阿遅鉏高日子根神は、出雲を出て、ヤマトに近づき、ヤマトと和合する様に見せかけ、神武天皇側へ力を貸した。そして、あくまで『記紀』神話上ではあるが、最大の謎(筆者的に)が、元出雲・神武側についたのは阿遅鉏高日子根神と、大年神饒速日自身でもある事だ。

 

記紀』上に、この時に討伐対象・敵役になっているのはヤマト元王の長髄彦ながすねひこである。じつのところ、大歳=饒速日尊は、この時にはもう亡くなっていたともされる。しかし『記紀』上は、饒速日尊は神武に国譲りし、抵抗した長髄彦を斬ったとされる。

 

どちらにしても、この神武天皇の国取りの際の討伐対象・敵役はヤマト元王の長髄彦ながすねひことなった。ここで、もう一つの興味深いの点は、富の長髄彦(ながすねひこ)も元出雲であり、妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、登美夜毘売)を大歳=饒速日に娶らせている。

 

さらに、補足すると、

 

つまりは、神武天皇のヤマトへ国取りにきたこの記紀神話に関しては、神武天皇側と阿遅鉏高日子根神(八咫烏)、そして、長髄彦の対立がみえるが、それは、神武天皇と、大年神饒速日の系譜にある末裔たちの「後継争い」にも見える。

 

しかし、同父と三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、登美夜毘売)の御子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと、物部の祖)や、同父と天道日女命の御子の高倉下(天村雲命・尾張の祖)は神武天皇側についた立ち位置にはなっている。

 

長髄彦(ながすねひこ)のみが神武天皇下につくことを拒んだが、彼が守っていたのは、誰であったか。神武天皇、阿遅鉏高日子根神(八咫烏賀茂氏)、宇摩志麻遅命物部氏)、高倉下(尾張氏)などは神武側についたが長髄彦は抵抗した側である。

 

誰を守っていたのか?

 

それは、大歳=饒速日尊が、かぐよ姫(香具夜姫)ともうけた娘「かぐや姫」を守るためであったとされる。そして、ヤマト元王の長髄彦(ながすねひこ)は東北へ逃れていったともされていたりする。今後この深い考察を行う。




この話からは、不思議に思っている点が多々ある。

 

・事代主=阿遅鉏高日子根神

・事代主の妃は妹高照光姫(タカテルヒメ)

・事代主の父は恵比寿大神と云われる

・阿遅鉏高日子根神は妹下照姫を饒速日に娶らせた

長髄彦ながすねひこ)も妹三炊屋媛を饒速日に娶らせた

長髄彦妹三炊屋媛の父も恵比寿大神と云われる

・阿遅鉏高日子根神はアヂは可美(ウマシ)スキは鉏、タカヒコネは敬称

長髄彦の妹三炊屋媛と饒速日尊の御子は別名 可美真手命(ウマシマジ

・出雲の役職の事代主は出雲でなく三輪山大物主神となった(三輪氏・賀茂氏の祖)

可美真手命は長髄彦ではなく神武天皇側についた物部連と穂積氏らの祖

高倉下は同じく饒速日とされる火明命の御子、尾張氏の祖、神武側

・しかしながら、高倉下以下末裔、天香山命饒速日に従い天降った32柱の神であった

尾張氏不比等不比等末裔と婚姻し外戚から藤原氏となり中臣氏や藤原氏の祖神を祀る

・中臣氏が藤原氏になったのでなく不比等末裔のみ藤原氏になり、外戚尾張氏と藤原姓を名乗る

長髄彦は安日彦と「かぐや姫」と東北へ逃げ延び、荒脛巾(あらはばき)族となったとされる

長髄彦の兄安日彦(あびひこ)は記紀に記されず消されている、古くには鬼王安日王

・『古事記』に上記(ウエツフミ)の歴史が変えられ『日本書紀』に『古事記』が変えられた

 

結論的に言うと、今必要なのは『長髄彦』の考察であるのに、ずっと「海の民」「水の時代」などと、別の話ばかりに世間が大盛り上がりしている。

 

水、水、それによって大事なことがかき消されている。火の国、火の信仰が蝦夷であり、夷(えびす)であり、火の子供が水である。

 

そして、剣先から滴った血から生まれたのが水の神であると忘れている。

 

ゆえに、筆者は世間とは別の視点で考察を続けていこうと思っている。



大国主神の考察①「火と水の神」の系図

 

國學院データベースの梗概からは、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の系譜は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜中(つまりは大国主の系譜と同じ、元は同じ)とされている。

 

「『古事記』の中での出雲神話中に記された素戔嗚命の系譜は、大国主神の系譜と、もとは一つに続いているものである」

 

これに、出雲の大年神(おおとしがみ、大歳、饒速日尊と同一視される)の系譜を含めた三系譜全体の構造は、もとは1つであると筆者もみている。

 

よくある一般解説の中では、

 

大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)を「外国人である須勢理毘売命の夫、婿入りした素戔嗚尊の娘婿」という説明をする方々が見受けられるが、筆者は「それは違うのではないか?」とは思っている。

 

大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)は、単に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の娘の須勢理毘売命(すせりびめのみこと)の「娘婿」というだけではない。大国主神じたい素戔嗚尊の血筋ではあるのだ。

 

「末子相続」をする出雲の祭祀王としての後継者は末子である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)には変わりはないように思うが、《それとこれとはまた違った話》になる。大国主神が何故、「外国人」とされるのか?という点である。

 

大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)が「外国人」とされるのは、荒脛巾(あらはばき)という日本の古代の神が「客人神(まろうどがみ)」とされる経緯に似たものがあるように思われる。

 

大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の系譜には、『古事記』や『出雲国風土記』には記述があるが『日本書紀』にはない祖先と、その系図というものも見受けられる。

 

 

《歴史書による選者の異なり》

 

ポイントとしては、下記である。

 

⬛️『古事記

 

(◆は編纂に関わった天皇や氏族)

 

◆海人族(あまひとぞく)、天武天皇

 

古事記』の選者(編者)は太安万侶 (おおのやすまろ、多氏に繋がる)ら。『古事記』序では、稗田阿礼(ひえだのあれい、稗田氏は猨女君、忌部氏和邇氏、春日氏へと繋がる)に「帝皇の日継、及び先代の旧辞を誦せしめた」とある。

 

太安万侶 (多氏)/稗田阿礼(稗田/忌部/和邇/春日)

 

古事記』は海人族(あまひとぞく)の手により育てられた大海人皇子天武天皇の命により編纂されており、国譲り前からの古代出雲国天皇家視点からで描く。選者(編者)には、太安万侶 (おおのやすまろ、多氏)、稗田阿礼(ひえだのあれい、猨女君、忌部氏和邇氏、春日氏へと繋がる)ら。

 

⬛️『日本書紀

 

(◆は編纂に関わった天皇や氏族)

 

◆海人族(あまひとぞく)、天武天皇

 

日本書紀』も、同じく天武天皇が命じ、川嶋皇子・忍壁皇子(おさかべのみこ)ら12人に作成を命じたものではあるが、漢文、中国などへ向けての日本の国史書として特化した。『日本書紀』は720年(養老4)に完成した歴史書で、『古事記』の成立から8年後に成立した。

 

◆川嶋/忍壁皇子・上毛野/忌部/中臣/阿曇(安曇)ら

 

日本書紀』天武十年三月条では、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千・忌部連首・阿曇連稲敷・難波連中大形・中臣連大嶋・平群臣子首の十二名に「帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、大嶋・子首、親しく筆を執りて以て録した」と述べる。

 

舎人親王(とねりしんのう)、紀氏

 

続日本紀』は、天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)によって奏上されたとされる。撰者(編者)はほか紀清人(きのきよひと、紀氏)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが編纂の実務を担当したとされる。

 

◆藤原/尾張氏

 

また、『日本書紀』編纂時には、この時代に権力を奮っていたのが「藤原不比等(ふひと、中臣鎌足の子の不比等末裔と外戚尾張氏から成す藤原氏)」である理由から、日本書紀編纂にも「権力を持っているから関わったのではないか?」とは云われる。

 

実のところ、一般解説では、「選者(編者)が不比等(ふひと)であり、都合よく歴史を捏造した」というふうに噂が横行する。しかし、これは、しばしば誤解を招き、筆者は「違うのではないか?」とは思う。あくまで、当時に権力があるから影響をさせた可能性はあるというのが本当である。

 

⬛️因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)

 

また、補足で大国主神の「因幡の素兎」について。

 

古事記』上巻(神代)大穴牟遲神(大国主神)の求婚譚前半「稻羽之素菟」があるが、そこには「大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)を虐げる八十神の兄弟達」が記される。

 

また、因幡の素兎(しろうさぎ)の神話には、八十神や和邇(ワニ)が兎に意地悪をする立場で描かれる。この時、大国主神は兎を救う立場であったというような描写がある。大国主神は八十神に二度、命を追われて、復活を遂げた神である。

 

古事記先代旧事本紀にあり出雲国風土記にない

 

因幡の素兎は『先代旧事本紀』に記載があって『日本書紀』には記載がない。『因幡国風土記』は現存しておらず、『出雲国風土記』には記載はない。

 

つまり、出雲側(八十神、和邇氏ら)には特段に記述の必要はなかった神話だから、『出雲国風土記』には「因幡の素兎」の記述はないと一般人解説や諸説がある。

 

そして、出雲ではない側(素兎のような)が大国主神を立てて「因幡の素兎」を記述したい理由があるように思われているそうだ。どうなのだろうか。

 

古事記』『先代旧事本紀

因幡の素兎の話がある

因幡の素兎側の目線で描くから?

古事記出雲国をよく描いている(出雲を立てる)

古事記饒速日はほとんど描かれない(神武中心)

先代旧事本紀には饒速日がよく描かれる(物部、海部の祖で、火の神信仰の蝦夷と関わるから)

 

日本書紀』『出雲国風土記

因幡の素兎の話はない

八十神、和邇氏側の目線で描くから?

日本書紀大国主神系図を省略

日本書紀出雲国風土記の古代伝承をカット

素兎は出雲国風土記にない、古事記で付加された

 

よって、実際には、

 

筆者は、「大国主神が八十神に二度もやられても復活をした神」と描きたいから『古事記』『先代旧事本紀』に因幡の素兎が描かれたと思っている。

 

であるから、因幡の素兎を象徴する氏族が「因幡の素兎伝承」を付加したには違いはないのだとは思うが、八十神目線から因幡の素兎伝承を書かない、消したわけでは「ない」と考えている。

 

何故ならば、因幡の素兎伝承は、『古事記』よりも古く出雲国を描いた風土記には描かれていず、その理由は八十神氏族=出雲側だからであっても、大国主神が出雲をまとめていたならば、その一部は伝承が残るであろうと思われる。

 

また、

 

大国主神とは素戔嗚尊(すさのおのみこと)から世代交代をした後の出雲大社の神、そして「国譲り」の窓口役だったとは思う。だから、あまり重要な神じゃなかった、という一般人解説や諸説があるのは少し「違和感」がある。

 

実際には、

 

筆者は、『古事記』には、大山津見(おおやまつみ)から差し出された2人の娘、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が美しく、磐長姫(いわながひめ)が美しくないからと返した『皇祖神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、日向三代の初代、神武天皇の曾祖父)』が『古事記』の中心となるが、

 

返された磐長姫(いわながひめ)が『永遠の命、長寿』の力を持つ女神であり、大国主神より以前に日本の国づくりをしたとされる『巨人神』に娶られて、大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)の系譜を成した事が省かれていると思う。

 

大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖とされた神にまつわる『巨人神』(『出雲国風土記』)の記述と、その血筋、そして、磐長姫(いわながひめ)の血筋が、『古事記』『日本書紀』ともにより消された古代日本の本当の重要な伝承であると思う。

 

また、

 

因幡の素兎の話がある、なし、に関しては、「二回復活を遂げた」という神殿建設者 ヒラム・アビフの「死と復活」のイニシエーションが関わったものであると考えていたりする。

 

すなわち、『古事記』により、因幡の素兎の神話が付加されているが、『出雲国風土記』には元々なかったという理由は、大国主神を虐めた八十神=出雲族目線だから、大国主神が外国人だからなどの理由でなく、

 

古事記』から、神殿信仰が入ったからと思う。神殿建設者 ヒラム・アビフの「死と復活」のイニシエーションでは、仲間に2回、やられたが、復活するというフリーメイソンリー的な話が取り入れられたような見方ができる。

 

出雲国風土記』とは、

 

地域によって存在したクニの風土を地場的に記すものであり、天皇に統治される一国家を目指す目的の方針では記されていない地場の伝承が描かれるが、因幡の素兎は存在しない。

 

ゆえに、筆者は大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)の系図を、あまり重要としない一般解説や竹内式解説とは反してみて、重要として、考察をしている。

 

竹内文書に関し、正統竹内文書も含め、筆者は、たとえ自らの血筋が竹内家と関わるとしても、それには、信憑性がある部分と、そうではなく懐疑的な部分がある。

 

何故ならば、武内宿禰じたいは、初代と思われる宿禰が、紀氏の血筋であり、『日本書紀』編纂に紀氏は関わるのもある。大臣という立場も、なんらかの影響力があると思われるからである。

 

また、武内宿禰は安曇磯良や、天児屋根命(あめのこやね)であるともされ、それ相応な、主観的目線があると思われ、ゆえに、純粋に、歴史を読み解くという目線からで記していく。

 

なので、筆者は、大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)を重要な神として、今後の考察は深く続ける。

 

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とは?
 

伊邪那岐神」が(伊邪那美神の死因となった、両神御子神)「火之迦具土神(あめのかぐつち)」を斬り殺した際に生まれた」

 

とされている。

 

今回の話題とはその『淤美豆奴神(おみづぬのかみ)』である。

 

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)は、淤加美神(おかみのかみ)、または龗神(おかみのかみ)『古事記』で淤加美神、『日本書紀』で龗神と表記する。

 

深淵之水夜礼花神が天之都度閉知泥神を娶って生んだ神なのが『淤美豆奴神(おみづぬのかみ)』、布怒豆怒神の娘の布帝耳神を娶って生んだのが天之冬衣神とされる。

 

 

 

古事記』及び『日本書紀』の一書では、火之迦具土神(あめのかぐつち)を斬った御刀の柄に溜まった血が、指の間から漏れ出て、「闇御津羽神(くらみつはのかみ)、闇龗神、または闇罔象神(くらおかみのかみ)」が生まれたそうだ。

 

火之迦具土神(あめのかぐつち)

闇御津羽神(くらみつはのかみ)、

闇龗神、または闇罔象神(くらおかみのかみ)

 

ちなみに『日本書紀』の一書では「軻遇突智神(かぐつちのかみ、火之迦具土神 あめのかぐつち)を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)である」としている。

 

また、別書では、闇山祇(くらやまつみ)を加えた三柱神が生まれているととされる。

 

 

闇御津羽神(くらみつはのかみ)の「ミツハ」
 

古事記』では「闇御津羽神(くらみつはのかみ)」、『日本書紀』では「闇龗神、または闇罔象神(くらおかみのかみ)」と表記する。

 

古事記』での「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」が、『日本書紀』で「罔象女神(みつはのめのかみ)」と表記するのと同じことである。

 

闇御津羽神(くらみつはのかみ)の意味の構成は、「闇」は「暗」で暗がりである谷間を、「ミツハ」は「水早」で水の出始めを意味する。

 

「ミツハ」は「水早」で水の出始め

 

闇御津羽神は「峡谷の出始めの水を司る神」である。闇龗神や高龗神同様、『龍神』であるともされる。

 

この響きは、大祓詞(おおはらえのことば)で知られる祓戸狼、かの龍神・弁財天の瀬織津姫、せおりつひめ、瀬織津比咩を彷彿とさせる。

 

そのように思ったら、瀬頼津姫神は、闇御津羽神(くらみつはのかみ)や宗像三女神(むなかたさんじょしん)の市杵島姫命(いつきしまひめのみこと)や弁財天(べんてん)、菊理媛命(きくりひめ)、などと同一視されている事があるようだ。

 

龍は水や雨を司る神として崇敬される。その為、闇御津羽神(くらみつはのかみ)は祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神、井戸の神として信仰されている。賀久留神社(静岡県浜松市)などで祀られている。

 

火之迦具土神(あめのかぐつち)の御子神
 

当初からの経緯としては、神産みにおいて、伊邪那岐伊邪那美との間に生「火の神」がもうけられ、この神、「火之迦具土神(あめのかぐつち)」を出産時にイザナミの陰部に火傷を負った。

 

これがもとで伊邪那美は死去したので怒った伊邪那岐は『十拳剣』という「天之尾羽張(アメノオハバリ)」という剣で首を落とされ殺されたという神話がある。

 

切り殺された「火の神」の名は下記である。

 

火の神「火之迦具土神(あめのかぐつち)」。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

 

古事記』十拳剣の先から岩石に滴った火之迦具土神の血から生成された神々。

石折神(いはさくのかみ)
根折神(ねさくのかみ)
石筒之男神(いはつつのをのかみ)
 

以下の三柱神は十拳剣の根本からの岩石に滴った血で生成された神々。

甕速日神(みかはやひのかみ)
樋速日神(ひはやひのかみ)
建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)別名は、建布都神(たけふつのかみ)
別名は、豊布都神(とよふつのかみ)
以上二柱神は十拳剣の柄から岩石に滴った血より生成された神々。

闇淤加美神(くらおかみのかみ)
闇御津羽神(くらみつはのかみ)
 

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とは、『古事記』では「闇御津羽神(くらみつはのかみ)」、『日本書紀』では「闇龗神、または闇罔象神(くらおかみのかみ)」と表記する。

 

古事記』の大国主神(おおくにぬし)の祖父母
淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とは、『古事記素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜にのみ登場する神で、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖父とされる神である。


古事記』では素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜から淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と布帝耳神(ふてみみのかみ)は夫婦となっている。

 

先に記すが『日本書紀』では、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の父は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」、母はアシナヅチテナヅチの娘の「櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)」である。

 

古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖父祖母が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜からきた末裔の「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」と「布帝耳神(ふてみみのかみ)」である。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)との間の子が「八島士奴美神(やしまじぬみ)」であるが、この八島士奴美神(やしまじぬみ)と、大山津見(おおやまつみ)の娘の木花知流比売(このはなちるひめ)の子が「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」として『古事記』には記されていた。


そして、「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」は、妻の「布帝耳神(ふてみみのかみ」)との間に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫にあたる「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」をもうけている。

 

これが『古事記』の大国主系図なのである。

 

古事記』と『日本書紀』の違いは、日本書紀ではこの「八島士奴美神(やしまじぬみ)~淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」が消えているという事である。

 

この「八島士奴美神(やしまじぬみ)~淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」の世代には『出雲国風土記』にみられる「国引きの巨人神」と繋がる伝承が隠されている。

 

すなわち、素戔嗚尊(すさのおのみこと)からの系譜である

大国主神(おおくにぬし)

とは?

出雲国風土記』にみられる「国引きの巨人神」の伝承を持つ神

である可能性、という事を筆者は言及をしている。

 

島根県出雲市西園町「長浜神社社説」の大国主神

この『古事記』の大国主系図に対し、島根県出雲市西園町にある長浜神社の社説には、「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子」になっている。

 

八島士奴美神(やしまじぬみ)」と「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)」と同一なのか。

 

一般的には、「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)」と「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」は同一説がある。

 

八束水臣津野命は『出雲国風土記』では「国引き」をした『巨人神』とされており、島根出雲にある諏訪神社に祀られている。諏訪といえば建御名方であり、建御名方といえば武甕雷との相撲の伝承がある、という繋がりである。

 

実は、この場合、大国主神(おおくにぬし=大己貴神)の系譜にも「相撲をした伝承」がある、という事が見えてくる。これは『古事記』を読むとわかるのだが、『日本書紀』だけを読むと(まったく消されてしまっているので)知る由もない。

 

相撲の伝承をもつ一族は、日本神話では、建御名方、大国主神の一族、そして、大隅隼人(おおすみはやと)などがある。聖書なら「ヤコブ」と「ガブリエル」の伝承がある。これについては後でさらに詳細を記し、一旦ここで区切る。

 

古事記大国主神の母は「大伴氏」の娘?
古事記』では、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の御子で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫にあたる天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)とは大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の父とされる。


もう一度、先に記すが『日本書紀』では、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の父は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」、母は足名椎命・手名椎命(アシナヅチテナヅチ)の娘の「櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)」である。


しかし『古事記』においては、大国主(おおくにぬし)の父は「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」で、母は刺国大神の子の「刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)」とされるのである。

 

刺国大神とは別名が粟鹿神社の書物『粟鹿大明神元気記』では佐斯久斯布刀比売(さしくしふとひめ)である。また、本居宣長による説で、刺田比古神(さすたひこ)という神が『古事記』での出雲神話における「刺国大神」と推定している。


これを受け、刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)という社があるのだが、調べた。和歌山県和歌山市片岡町には「刺田比古神社」という社がある。御祭神は、大伴氏(おおともし)にかかわっているという事が分かった。

 

刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)という社の御祭神は、主祭神が大伴道臣命(おおともみちおみのみこと)、狭手彦命/大伴佐氐比古命(おおとものさでひこのみこと)とある。


実は、『古事記伝 神祇志料等』刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)の主祭神は刺国大神(さしくにのおほかみ)で、大国主神(おおくにぬしのかみ、大國主神=大己貴神)の母神 刺国若姫の父神)ともなされている。


つまりは、『古事記』においては、大国主(おおくにぬし)の父とは素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」、母は大伴氏である刺国大神の子の「刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)」とされる。

 

この点について、『古事記』には記載があるが『日本書紀』には消えてしまっている、という状況を書いている。

 

大伴氏の祖は、

 

天津神天忍日命(あめのおしひ)

 

である。

 

大伴氏とは物部氏や葛城氏と近しかったが、藤原氏の台頭によって、だんだん衰退していった氏族ではある。

 

祖神は「天忍日命(あめのおしひ)」という天神系なのである。

 

大国主の『古事記』での系図:まとめ①
古事記

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大山津見神の孫の櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)を娶って生まれた子の八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)/八島士奴美神(やしまじぬみ)。

 

八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)/八島士奴美神(やしまじぬみ)と、大山津見(おおやまつみ)の娘の木花知流比売(このはなちるひめ)の子が「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」。

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と、知波夜比売神社(広島県三次市布野町)に祀られる布怒豆怒神(ふのづののかみ)の娘である布帝耳神(ふてみみのかみ)が夫婦となり、大国主祖父母となる。

 

「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」を生む。

大国主(おおくにぬし)の父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国大神の子の刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)とされる。


本居宣長による説で、刺田比古神(さすたひこ)が「刺国大神」と推定され、『古事記伝 神祇志料等』刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)の主祭神、大伴道臣命(おおともみちおみのみこと)、狭手彦命/大伴佐氐比古命(おおとものさでひこのみこと)は、刺国大神(さしくにのおほかみ)。

 

大国主神の母神の刺国若姫の父神刺国大神。

 

すなわち、


大国主(おおくにぬし)の父とは素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、

 

母は大伴氏の娘である刺国大神の子の刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)とされる

 

のが『古事記』である。

 

古事記』の編纂は大海人皇子天武天皇、海神族
 

古事記』編纂は大海人皇子天武天皇が命じて編纂がなされた。編纂者は、太安万侶 (おおのやすまろ)や、稗田阿礼(ひえだのあれい)らによる。

 

太安万侶は、初代神武天皇の皇子で、第2代綏靖天皇の同母兄である「神八井耳命(かんやいみみのみこと)」の後継の多氏からの氏族である。

 

そして、

 

稗田阿礼(ひえだのあれい)の稗田氏は、吉備(岡山)発の桃太郎伝承に出来る「鬼=百済の王」である「温羅(うら)」の首を切ったとされる氏族の猿飼氏である。

 

 

このことは後に記す『真実』の「桃太郎噺(ももたろう)」の伝承の解説に繋がるから、覚えておきたい点である。

 

すなわち猿女君(さるめのきみ、猨女君、猿女公)、天宇受売命からの一族である忌部氏和邇氏などとの関係性が見られる。

 

猿女の夫とは、

 

出雲や稲荷の祭神「佐太彦大神」とされる出雲族祖神「岐神(くなどのかみ)」の御子、

 

別名 猿田毘古大神(さるたひこ)

 

とされる。

 

島根県出雲市西園町にある「長浜神社の社説」


古事記』で大国主命の祖父の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とは「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子」になっている。

 

八束水臣津野命八島士奴美神(やしまじぬみ)は同一か。また、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)は同一神説もあるが、今回はこれについてを記す。

 

出雲国風土記』の「国引きの巨人神」が「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)」とされており、

 

島根の諏訪神社主祭神として八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が祀られている。『古事記』では、大国主命の祖祖父にあたる。

 

古事記大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖祖父は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)であり、大国主神の祖父は、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)ある。

 

 

「国引きの巨人神族末裔」の大国主命


古事記』では、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜の神の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖父とされる。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大山津見神の孫の櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)を娶って生まれた子の八島士奴美神(やしまじぬみ)と、大山津見(おおやまつみ)の娘の木花知流比売(このはなちるひめ)の子が「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」となり、大国主命の祖父とされる。

 

大山津見(おおやまつみ)の娘を母と持つ神は多くある。例えば、神大市比売(かむおほいちひめ、大山津見神の娘神)の子の大年神=大歳(おおとしがみ)や宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)。

 

また、さらに、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)も大山津見(おおやまつみ)の娘で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、日向三代の初代、神武天皇の曾祖父)との子の火照命火須勢理命火遠理命、火明命などに続く。

 

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、日向三代の初代、神武天皇の曾祖父)と木花咲耶姫の子は全て『火』にまつわる。

 

ここで重要な点がさらにある。

 

火照命は海幸彦(隼人一族、縄文先住民)、火遠理命は山幸彦(天皇家、山幸彦:日子種穂手見命、安曇氏といわれる)で有名だ。

 

問題はその後。


古事記』に名前のみが登場し、その後、『日本書紀』でも名前も出てこないという神は、火須勢理命であり、火須勢理命火遠理命(山幸彦:日子種穂手見命)の兄であり、火照命(海幸彦)の弟であるという。


火照命 第一子「稲が赤く照り輝くさま」

火須勢理命 第二子「稲が成熟するさま」

火遠理命 第三子「稲が実ってたわむさま」

 

最後の火明命は天火明命(あめのほあかりのみこと)に見られる。この神は「日本書紀」のみに見える神である。 

 

皇孫である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と木花開耶姫の子とされるが、瓊瓊杵命から自分の子であるか疑われた際、木花開耶姫は瓊瓊杵命の子だとを明らかにするために「火」を放って生んだという三神の一柱である。

 

ただし、上記は『古事記』にはなく、『日本書紀』のみにある話である。これは重要だから覚えておきたい。火須勢理命と火明命は、『古事記』ではない、『日本書紀』で付け加えられた。

 

大国主命系図に戻る。


島根県出雲市西園町にある「長浜神社の社説」では、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とは「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子」とされているという事は先述した。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)の子の八島士奴美神(やしまじぬみ)は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)だろうか。

 

八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)は、『出雲国風土記』に語られた「国引きの巨人神」であると記述がある。また、大国主命より先だった国作りに関わった神とされる。

 

風土記の意宇(おう)郡の条で、この神が新羅(しらぎ)をはじめとする諸方から国をみずからの力で引き寄せて出雲の国を作りなしたと伝えている。出雲(島根)の地名もこの神の命名によるとされる。


世界百科事典の記述を借りる。


引用:


「巨人の神が他の国土を引き寄せて国作りした。八束水臣津野(やつかみずおみつの)命なる神が〈八雲立つ出雲の国〉はまだ狭く稚い国だ,この小さな最初の国土を作り縫おうといって,新羅の三埼(みさき),北門(きたど)の佐伎(さき)の国,北門の農波(ぬなみ)の国,越(こし)の都々(つつ)の三埼の諸方より,それぞれの土地に綱をかけて引き寄せ出雲の国に結びつけたと語られている。

 

国引きの有様は〈童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして 大魚(おうお)のきだ(えら)衝(つ)き別けて はたすすき穂振り別けて 三身(みつみ)の(3本よりの)綱うち挂(か)けて 霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに 河船のもそろもそろに 国来(くにこ)国来と引き来縫へる国は……〉との律文でのべられ,かくして出雲の国に縫い合わされたのが杵築(きづき)の御埼,美保の御埼などであるという。


この巨人神は、新羅(しらぎ)の「三埼(みさき)」北門(きたど)の「佐伎(さき)」の国、北門の「農波(ぬなみ)」の国、越(こし)の「都々(つつ)」から、それぞれの土地に綱をかけて引き寄せて『出雲の国』に結びつけたとされる。これが『出雲国風土記』に語られた「国引きの巨人神」の事である。


出雲国風土記』に語られた「国引きの巨人神」が風土記内で「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の系譜と関わる」などと直接となる記述はない。しかし、風土記では「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が国引きの巨人神である」とはっきりと云われる。


出雲を治めた神の大穴持(おおなもち)命より先立つ「原初的国作り神」として伝承として残されていたのが「八島士奴美神(やしまじぬみ)」ではある。八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)は『古事記』では、八島士奴美神から遠津山岬多良斯神まで十五柱を指す十七世神(とおまりななよのかみ)の初代であるとはされている。

 

この八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)が大穴持(おおなもち)命以前の国作りの神となる。そして出雲、島根の諏訪神社に祀られている。諏訪といえば守屋や建御名方であり、ミシャクジの信仰や荒脛巾(アラハバキ)との関係性は気になる。


八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)は、『古事記』では、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と櫛名田比売の子だが、大年神=大歳(おおとしがみ)や、宇迦御魂大神(うかのみたまのおおかみ)からすると異母兄にあたる位置づけである。


また、八島士奴美神(やしまじぬみ)と、大山津見(おおやまつみ)の娘の木花知流比売(このはなちるひめ)の子が「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」であり、大穴持(おおなもち)命の祖父となる。


島根県出雲市西園町にある「長浜神社の社説」で「八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)の御子が淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」と読み取れる社説がある。すなわち、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子の八島士奴美神(やしまじぬみ)の子が、八束水臣津野命であり淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と見える。


古事記』では淤美豆奴神(おみづぬのかみ)が大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖父。つまり、風土記では大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の祖父の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)は「国引きの巨人神」であるように繋がって見える。


淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子である大国主の父とは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)である。そして、大国主の母は大伴氏の娘ある刺国大神の子の刺若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)とされる。

 

大伴氏とは「天皇にお伴する」というような、その名の通りに天皇一族に近しい一族だったのではなかろうか。


すなわち、『出雲国風土記』の「国引きの巨人神」の孫が大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)であるという事になり、

 

古事記』には、大国主命の父は素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)である。

 

大国主の母は大伴氏の娘ある刺国大神の子の刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)である事はよくわかった。


以上が『古事記』からだが、

 

日本書紀』ではあくまで大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の父は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、母は櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)とだけ

 

にされている。

 

何が起こったのか。


すなわち、『日本書紀』では、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子の八島士奴美神(やしまじぬみ)と、その子である八束水臣津野命出雲国風土記の国引きの巨人神)、イコール、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の存在が無くなっている。


また、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子、素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と、その妻の大伴氏の祖、刺国大神の子の刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)という箇所が消えて、何もなかったように飛ばされている。

 

さらに重要点は、


淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子には、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)以外には、

 

赤衾伊農意保須美比古佐和気能命、つまり「天之菩卑能命(あめのほひ)」の名があるのだ。

 

気になっていたが、『日本書紀』では全くもってここに繋がっていく話題は飛ばされて消されてしまっている。


古事記』では天之菩卑能命(あめのほひ)、『日本書紀』では天穂日命、他に天菩比神など。

 

この淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命は「天之菩卑能命(あめのほひ)」である。

 

天照大御神須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱が「天之菩卑能命(あめのほひ)」なのである。


何故、「天之菩卑能命(あめのほひ)」が、大国主神の祖父である『淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子』であると云われているのだろうか。

 

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子には大国主命の父とされる天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)の兄弟がいるのだが、同父神の子には「天之菩卑能命(あめのほひ)」がおられるというのである。


天之菩卑能命(あめのほひ)」は、天照大御神素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約・宇気比(うけい)での第二子であり、天忍穂耳命(あめのおしほみみ)の弟神ともなる。

 

古事記』の登場の場面は、葦原中国平定の為に出雲の大国主神の元に遣わされ、大国主神を説得しようとするも地上に住み着き3年は高天原に戻らなかったというところで登場するのである。


後に武甕雷が大国主神の子の事代主神建御名方神を平定後と、大国主神に仕えたとされ、天之菩卑能命(あめのほひ)の子となる建比良鳥命出雲国造、土師氏らの祖神となったとされている。


ちなみに、八束水臣津野命出雲国風土記の国引きの巨人神)は、諏訪神社島根県出雲市別所町)に祀られている。諏訪といえば建御名方(たけみなかた)である。

 

こちらの島根の諏訪神社では生贄的な儀式はないと神官は強調された。諏訪大社では生け贄的儀式がある。物部守屋からの物部氏の影響なのか。

 

八束水臣津野命出雲国風土記の国引きの巨人神)の子にあたる淤美豆奴神(おみづぬのかみ)は、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命/天之菩卑能命(あめのほひ)という子を持っていた?


淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)の父。

 

古事記』では、素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」と、刺国大神(大伴氏祖神)の子の刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)が「大国主神(おおくにぬしのかみ、=大己貴神)」の親となったとされる。

 

淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子の天之菩卑能命(あめのほひ)は、『古事記建比良鳥命、『日本書紀』大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)・武三熊之大人(たけみくまのうし)・武日照命(たけひなてるのみこと)・武夷鳥命天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)、天日照命(あめのひなでりのみこと)の父となる神であり。


建比良鳥命の別名は天夷鳥命であり「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」の意味がある。出雲とは『 夷(鄙・ひな=出雲国)』と呼ばれたのだった。えびす(ゑびす、恵比寿、蛭子、戎、YEBISU)は、夷とも書く。

 

つまりは、大国主の父となる「天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)」と、夷の父となる「天之菩卑能命(あめのほひ)」は異母兄弟で、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)を父神とする。


天之菩卑能命(あめのほひ)は、建比良鳥命出雲国造、そして、土師氏(はじうじ、はじし、土師氏)らの祖神となってはいる。野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖とされているが、ちょっと注視してみる。


何故か、垂仁天皇の命により、当麻蹴速角力(相撲)(『日本書紀』では「捔力」に作る)をとるために出雲国より召喚されたエピソードがあるのだが、これって武甕雷と建御名方、大隈隼人と阿田隼人の相撲エピソードと同じだ。ちなみに、聖書では、ヤコブと天使ガブリエルである。


そして、『古事記』では天之菩卑能命(あめのほひ)は大国主神父と「兄弟」だが、『日本書紀』には消されている。

 

古事記』の歴史が『日本書紀』に移り変わるときに、消されたり付け加えされた部分は下記である。

 

 

まとめる。

 

古事記』消されたり付け加えされた点

 

は?

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大山津見神の孫の櫛名田比売(奇稲田姫、くしなだひめ)を娶って生まれた子の八島士奴美神(やしまじぬみ)と、大山津見(おおやまつみ)の娘の木花知流比売(このはなちるひめ)の子が「淤美豆奴神(おみづぬのかみ)」である。


八島士奴美神(やしまじぬみ)の子が『出雲国風土記の巨人神』とされる八束水臣津野命出雲国風土記の国引きの巨人神)、イコール、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)と考えられる。


②『古事記』では、大国主の祖父の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子に、何故か、天照と素戔嗚の誓約・宇気比(うけい)の子であるはずの「天之菩卑能命(あめのほひ)」が見られる事


③上記、さらに、天之菩卑能命(あめのほひ)が大国主神の父の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と「兄弟」である事

 

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「兄弟」海幸彦、山幸彦の話で書いた説明:

 

火照命は海幸彦(隼人一族、縄文先住民)

 

火遠理命は山幸彦(天皇家、山幸彦:日子種穂手見命、安曇氏といわれる)

 

で有名だが、問題はその後。


古事記』に名前のみが登場し、その後、『日本書紀』では名前も出てこないという神が

 

火須勢理命

 

である。

 

火須勢理命火遠理命(山幸彦:日子種穂手見命)の兄であり、火照命(海幸彦)の弟であるという。

 

また、

 

古事記大国主の祖父の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子には、何故か、

 

天照と素戔嗚の誓約・宇気比(うけい)の子であるはずの「天之菩卑能命(あめのほひ)」

 

が見られる。

 

天之菩卑能命(あめのほひ)は、大国主神の父の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と「兄弟」となる。

 

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、日向三代の初代、神武天皇の曾祖父)と、大山津見神(おおやまづみ)の娘の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の子は皆

 

『火』

 

がつき、


火照命 第一子「稲が赤く照り輝くさま」

火須勢理命 第二子「稲が成熟するさま」

火遠理命 第三子「稲が実ってたわむさま」

 

最後の火明命は、海部氏系の天火明命(あめのほあかりのみこと)に見られる。この神は「日本書紀」のみに見える神である。 

 

古事記』から『日本書紀』になるときに消されたのは、海幸彦と山幸彦の「兄弟」にあたる『火須勢理命』であり、

 

大国主の祖父の淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子に、天照と素戔嗚の誓約・宇気比(うけい)の子であるはずの「天之菩卑能命(あめのほひ)」がある事。

 

つまり、大国主の父の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)は、天之菩卑能命(あめのほひ)と兄弟にあたるのではないかという事。

 

女神天照と素戔嗚の子

天之菩卑能命(あめのほひ)

 

天之冬衣神と刺国大神の子の刺国若比売の子

大国主神大己貴神

 

刺国大神とは大伴氏だが、『古事記』天之冬衣神と刺国大神の子の刺国若比売の子が大国主神大己貴神という箇所は『日本書紀』で削除されている。

 

日本書紀』はあくまで素戔嗚と櫛名田比売奇稲田姫、くしなだひめ)の子が大国主神である。つまり、天之菩卑能命(あめのほひ)とは異母兄弟になるのが大国主神である。

 

血筋的には間違ってはいないが、『古事記』大伴氏の娘の子が大国主神である事と、

 

出雲風土記の国引きの巨人神とされた大国主神の祖父である事が、

 

日本書紀』からではわからない

 

ようにされているかと思う。

 

また、

 

海幸彦、山幸彦に並ぶ「兄弟」の火須勢理命は『日本書紀』に消されており、代わりに、火明命が付け加えられている。

 

火須勢理命は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、日向三代の初代、神武天皇の曾祖父)と木花咲耶姫の第二子「稲が成熟するさま」とされるが、『日本書紀』では消されている。

 

火須勢理命須勢理毘売命(すせりびめのみこと)のスセリであり、素戔嗚と須勢理毘売命(すせりびめのみこと)の系譜とは云われていたりする。須勢理毘売命(すせりびめのみこと)は出雲の祭祀王であり、大国主神の妻である。

 

火明命は天火明命(あめのほあかりのみこと)に見られる。この神は『日本書紀』のみに見える神であり、海部氏系からみての海部氏の祖『饒速日』とみられる。

 

これは出雲の後継、須勢理毘売命(すせりびめのみこと)の系譜が、婚姻により、海部氏系からみての海部氏の祖『饒速日』=火明命=大国主神となったのか。どうか。

 

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④ 淤美豆奴神(おみづぬのかみ)の子「天之菩卑能命(あめのほひ)」は建比良鳥命の祖となるが、別名の天夷鳥命は「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」と云われる事


古事記には、素戔嗚尊(すさのおのみこと)5世孫の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)とその妻の大伴氏の祖、刺国大神の子の刺国若比売(さしくしわかひめ、刺國若姫)の子が大国主である事


⑥ 「天之菩卑能命(あめのほひ)」は土師氏(はじうじ、はじし)の祖ともなるのだが、土師氏祖神の野見宿禰に相撲のエピソードがあり、これは武甕雷と建御名方、大隈隼人と阿田隼人の相撲エピソードと同じな事


八束水臣津野命出雲国風土記の国引きの巨人神)は、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)に見られるのだが、諏訪神社島根県出雲市別所町)に祀られている事


以上が記紀大国主命についてで気になるところ。

 

さらには、

 

⑧女神天照孫、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と木花咲耶姫の子は皆『火』がつき、火須勢理命と火明命は、『古事記』ではない、『日本書紀』で付け加えられた。

 

火須勢理命は安曇氏系、火明命は海部氏系。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

縄文人・縄文時代とは①

 古代日本の縄文人とは、「石槍を手に狩猟のみ行った原始的な民族」ではなく、もっともっとさらに高度な技術と文明を有していた。現在の『縄文人』とは、もうイコール『原始人』ではない。発掘調査と研究と解明がますます進んできている。

 

 縄文時代の足跡を辿る場合は、青森市三内丸山遺跡(5500~4000年前)から出土した黒曜石、ヒスイ、琥珀(こはく)などがある。これらは北海道、東北、そのほかの各地からも出土している重要なアイテムなのである。

 

三内丸山遺跡とは(公式)

https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

 

 

縄文時代といえば、丸木舟・黒曜石・翡翠(ひすい)これが現在のキーワードである。この中で今回は「丸木舟」についてをまず触れていきたい。この縄文の丸木舟からは、それに付随して、様々な真実が明らかになっていけばと期待する。

 

縄文時代には高度文明があったという伝承は『竹内文書』をはじめ、 様々な古文書から記述なされていた。特に、竹内文書では「日本が人類文明の始まりである」という主張があり、古代日本人は海洋技術を有して世界を往来したというような記述がある。しかし、最近まで、その類の記述がなされるもの偽書扱いを受けたり、トンでも説と、門前払いされてきた。 

 

しかし、むしろ現代では、縄文高度文明説を否定する程、考古学界的には時代遅れのようである。なぜなら、もう沢山の出土がなされ、可能性や根拠になりうるものが出てきたりしており、「まずはその考え方を取り入れてみて考えてみよう」という人々が増えつつあるからである。

 

◇参考:

第七十三代武内宿禰 竹内睦弘氏

竹内巨磨の竹内文書(天津教文書)と正統竹内文書は「異なる」という

www.amazon.co.jp

 

 

これは「考察」を行ってみる価値はある。多くの日本の若者達もこれに興味を持ち始めていた。これというのは縄文高度文明説である。

 

近年は、それらの「根拠」となる物的証拠の出土と 解明が世界中で粛々と続けられており、公式にも『その可能性』が認められてきている。 

 

縄文時代は現在知られている年代情報よりも「古く」から存在したという可能性は日々にますます高まってきている。 

 

 

 

日本の戦後義務教育上の日本史では、 

 

縄文人=原始人」であり、

縄文時代とは「未発達な時代」として描かれ、

それを教え込まれてきた。

 

しかし、逆ならどうか?

 

現在のわたしたちの方が退化してたらどうか?

 

そして「縄文人は狩りをして暮らした」とか「弥生時代から農耕民族に進化」 という通念がまるっきり違って、そもそもわたしたちの方が遅れている文化人ならどうか?

 

日本では、

 

弥生人という「外国人」が稲作・農耕などの

技術と文明をもたらして

急速に古代日本の文化の発達をさせた

というような情報が通説

 

とされる。 

 

つまり、現在までの日本の義務教育では、

渡来してきた人々が「外国」からやってきて

文明を発達、促進させてきたという。

 

あくまで「外国人が文化をもたらし発達させた」という方向で日本の歴史が教えられている。

 

しかし、縄文土器から「米粒」が出土されていたりするという。 

 

ということは「稲作は弥生人がもたらした」というのは違った。 

 

縄文時代に、古代の日本人たちは、丸木舟すら有していたということについて、さまざまな出土品からの解明も進んでいる。

 

これが意味することは縄文人は「海洋技術」ももっていた事になる。 

 

このことから瞬時に筆者の頭をよぎったことはこうである。

 

万が一、今まで「外国人」と教え込まれていた古代人たちは

縄文時代の九州地方の大噴火」によって

その地に住めなくなり海の外へ避難していた

 

古代日本人

 

だったのなのならどうだろうか?

 

大隅海峡が発祥地となった鬼界カルデラ大噴火については

教科書では習った覚えがないのだが、

縄文時代には九州地方は壊滅状態に陥る大噴火があった。

 

(さらに縄文進出という海底上昇、

つまり海がせまってくる状況もあった)

 

鹿児島の南方約40㎞に位置する鬼界カルデラ

大隅海峡に存在する火山)

おおよそ約7300年前に大噴火が起こり

大量の降下軽石火砕流噴火の後に

南北13㎞、東西20㎞に及ぶ「カルデラ」として

形成されたという。

 

つまり、大噴火が約7300年前に起こったりしていて、

それに対し、丸木舟造りの縄文海洋技術は国内最古約7500年前である。

つまり「既に」もう舟で災害を逃れたり、海外に避難することは可能。

このことの詳しくはのちに書こうと思う。

 

なので、古代日本の不安定な火山活動と地殻変動の中で、

もともと縄文人たちが有していた丸木舟」の技術によって、

逃れ逃れ、うまく暮らしていたのではないか?

 

そこで海外に渡ったりしていた「古代日本人」は

もちろん存在することは「可能」となるのでないか。

むしろ、それを得意としたのではないか。

 

もしも、今まで「外国人」と教えられてきた人々が

地殻変動や天変地異の影響で移動した「古代日本人」であり

海の外から『帰還したした古代日本人』なのならば?

その考えも可能である。

 

ということは、

 

竹内文書」をはじめとした多くの古文書で語られた

古代日本人が世界を往来していた」という記述については

その『正当性』が十分に出てきたりもする

 

と、筆者は考えたりしている。

 

 

そして、

 

今までの縄文人=原始人的な概念はどんどん覆されるだろう。 

縄文時代はもっと高度な文明や技術を有していた可能性は高まる。 

 

これは日本国内だけでなく海外からも多く指摘なされている。 

日本は現在に既知される歴史よりも「古い」歴史を必ず持っている。

そして、もっと高度な世界があった事を予測している。

 

日本の縄文人たちは少なくても

 

「農耕」のみでなく「海洋技術」

 

も持った。

 

縄文時代には既に「丸木舟」を使って「海を渡っていた」という出土

 

があったのだ。 

 

 

今回は縄文時代とはのキーワードの中から「丸木舟」について記しておく。 

 

下記は千葉県から出土した「縄文時代の丸木舟」の情報である。 

千葉県市川市貝塚主体の「雷下遺跡」で発掘調査が行われ出土したもの。

 

雷下遺跡遺跡からは国内で最古約7500年前の丸木舟

多量の木製品、貯蔵穴の木の実などが出土した。

 

縄文時代の丸木舟は全国約160艘(そう)発見されるが

千葉県は全国最多の60艘が出土していた。

 

さらに国内最古約7500年前の丸木舟が発見された。

国内最古約7500年前の丸木舟ムクノキをくりぬいている。

 

全長約7.2メートル、幅約50センチ、

厚み船底部約8センチほどだと発表なされている。

 

これまで最古とされてきたのは、

島根県松江市で発掘された約7000年前のもの

千葉日報が報じる。

 

雷下遺跡の概要 リンク

 

情報として千葉県の公式ページをリンクして参照させて頂く。 

さらに縄文丸木舟を展示する横須賀自然・人文博物館のリンクも貼らせて頂く。 

つまりこの縄文の丸木舟とは一か所でなく複数発見されている

 

報道:千葉日報

 市川、国内最古の丸木舟 7500年前、魚介類など運搬 雷下遺跡 | 千葉日報オンライン

 

千葉県公式ページ 担当 所属課室:教育振興部文化財課指定文化財班  

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p181-001.html 

www.pref.chiba.lg.jp

 

横須賀自然・人文博物館 

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/exinfo/jinbun-map/floor-1/jinbun-9 

www.museum.yokosuka.kanagawa.jp

 

 

さらにこれによって「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」が

国立科学博物館人類史研究グループによって行われた。

 

「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」報告会見 

プロジェクト代表 海部陽介国立科学博物館人類史研究グループ長

www.youtube.com

 

<上記からの引用・参照> 

 

◇縄文丸木舟の造りと用途

 

ポイント:

発見される丸木舟のほとんどが

4000年~3000年前の縄文後期から晩期の舟

国内最古は約7500年前のムクノキ製

である。

 

 

”1本の木をくり抜いて作った舟を丸木舟とよぶ。 

材質はカヤ・イヌガヤなどが使われるが、 

堅くて緻密な素材が丸木舟に適していたと考えられる。 

 

栗山川周辺は、もともと内湾であったのが、 

現在の海岸線沿いに砂洲が発達し、 

外海からは締め切られ、 

淡水化して湿地として残されてきた。 

そのため、この周辺から、

丸木舟をはじめとする木製品や自然遺物

数多く発見される。 

 

この丸木舟は、昭和30年(1955年)の発掘調査によって、 

水田下約1.4mの泥炭層から出土したもので、 

長さ4.35m、幅43cmを測り、いわゆる鰹節形をしている。 

 

材質はカヤで、同時に出土した櫂(かい)はイヌガヤ製である。 

櫂は、板材を使用したもので、 

丸木舟に、櫂を取り付ける構造が見られないことから、 

手に持って漕いだものと考えられている。 

 

一緒に出土した土器から、 

この丸木舟は今から約4,000年前の縄文時代後期のもの 

と推定されている。 

 

陸上交通に比べ、多くのものや重いものを 

遠くまで速く運べるという点で、 

丸木舟は縄文時代の重要な交通・運搬手段であった。 

当時の人々は丸木舟を盛んに利用していたと考えられる。 ”

 

(千葉県公式ページ考古資料:県指定有形文化財昭和32年1月17日指定) 

 

 

横須賀市久里浜9丁目伝福寺裏遺跡(でんぷくじうらいせき)から出土した

縄文時代前期末葉~中期初頭頃の丸木舟です。

ムクノキ製で、現存長304.0㎝と国内最小クラスです。

その規模から、沿岸での漁撈活動(ぎょろうかつどう)

使われていたものと考えられています。 
また、同遺跡には

東北南部から畿内地方までにおよぶ広範囲の土器

が運び込まれていることが確認されています。  

 

(横須賀自然・人文博物館) 

 

  

昨今、

日本人が日本人の「ルーツ」を解明することに

興味をもって注視する時代になった。  

これには同じく世界も興味をもっている。 

 

日本の古代歴史については世界が興味を抱いている。  

この理由は「人類歴史」に関わることであるからである。

だから、この研究は重要なのである。

 

しかし、一方で、古代日本のルーツは解き明かされる事が  

まるで不都合だとする団体も存在しているかのように、 

悉く古代日本の研究と発表は抑圧されてきた。 

神代文字(じんだいもじ)』などがそうであった。

 

さらに、日本には天皇中心の国家を築く方針の中で、

国家の言い伝えを統一していく為に

歴史が作り直しをされていたりし、

その過程で消えていったしまった本当の歴史

もあると思う。

 

古代日本の本当の歴史を明かそうとすると、 

常時、それは認められず、偽または仮説とだけ

にされた。  

 

人間は一度信じ込んだものが覆されそうなとき

まずそれらを「批判」する。

これは人間心理なのだろうか。

一度「検証」してみる価値があることだと思う。

 

しかし、昨今は、

自発的に日本人達じたいが本当の歴史や自分たちのルーツを

「探る」という時代となり、

歴史上の事実をしっかり受け止めて「自覚」するようになった。 

だからこそ、多くの力で「検証・解明」がなされる。

 

それがあってこそで「わたしたち」の真実が明らかになっていく。

だから、さらに、少しでも多くの人達が、

隠れている真実にいろいろと気づいてくれるといいと思う。 

 

古代日本の本当の歴史を明らかにする事が 

すべての世界に繋がるという

 

「自覚」

 

を、もっと持てるといいと思う。 

うららの古代日本史ブログ開設★ご挨拶

こんにちは。

 

ユヅキノウララというペンネームにしておきます。

 

urala



 

もうそのままですが弓月の…ルーツをもつ家系の末裔です。

 

当家についての家系の歴史、口伝家伝含めた古代日本史の『卜』の歴史をつらつらと書いていきたいと思います。

 

ウララは、ワードプレスのブログをメインに書いています。後ほどリンクします。

 

このメインブログに対し、はてなブログの方は情報補足のために使うリンク用ブログになります。

 

はてなブログのほうは一般的な「おもて」の歴史、現在の公式な日本史とされる内容をメインに取り扱う資料的なブログにします。

 

(ワードプレスのメインブログは当家からの口伝などが含まれた内容となります)

 

分けた方がわかりやすいのでこの様な形式を取らせていただきます。無断転載やリンク、画像使用などは禁止させていただきます。

 

ぼちぼちと当家の歴史を更新していきますので、どうぞ、引き続きよろしくお願い申し上げます。

 

ウヅキノウララ