『卜』のオシエ by.ユヅキノウララ

古代日本史解説の資料用ブログです。

縄文人・縄文時代とは①

 古代日本の縄文人とは、「石槍を手に狩猟のみ行った原始的な民族」ではなく、もっともっとさらに高度な技術と文明を有していた。現在の『縄文人』とは、もうイコール『原始人』ではない。発掘調査と研究と解明がますます進んできている。

 

 縄文時代の足跡を辿る場合は、青森市三内丸山遺跡(5500~4000年前)から出土した黒曜石、ヒスイ、琥珀(こはく)などがある。これらは北海道、東北、そのほかの各地からも出土している重要なアイテムなのである。

 

三内丸山遺跡とは(公式)

https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

 

 

縄文時代といえば、丸木舟・黒曜石・翡翠(ひすい)これが現在のキーワードである。この中で今回は「丸木舟」についてをまず触れていきたい。この縄文の丸木舟からは、それに付随して、様々な真実が明らかになっていけばと期待する。

 

縄文時代には高度文明があったという伝承は『竹内文書』をはじめ、 様々な古文書から記述なされていた。特に、竹内文書では「日本が人類文明の始まりである」という主張があり、古代日本人は海洋技術を有して世界を往来したというような記述がある。しかし、最近まで、その類の記述がなされるもの偽書扱いを受けたり、トンでも説と、門前払いされてきた。 

 

しかし、むしろ現代では、縄文高度文明説を否定する程、考古学界的には時代遅れのようである。なぜなら、もう沢山の出土がなされ、可能性や根拠になりうるものが出てきたりしており、「まずはその考え方を取り入れてみて考えてみよう」という人々が増えつつあるからである。

 

◇参考:

第七十三代武内宿禰 竹内睦弘氏

竹内巨磨の竹内文書(天津教文書)と正統竹内文書は「異なる」という

www.amazon.co.jp

 

 

これは「考察」を行ってみる価値はある。多くの日本の若者達もこれに興味を持ち始めていた。これというのは縄文高度文明説である。

 

近年は、それらの「根拠」となる物的証拠の出土と 解明が世界中で粛々と続けられており、公式にも『その可能性』が認められてきている。 

 

縄文時代は現在知られている年代情報よりも「古く」から存在したという可能性は日々にますます高まってきている。 

 

 

 

日本の戦後義務教育上の日本史では、 

 

縄文人=原始人」であり、

縄文時代とは「未発達な時代」として描かれ、

それを教え込まれてきた。

 

しかし、逆ならどうか?

 

現在のわたしたちの方が退化してたらどうか?

 

そして「縄文人は狩りをして暮らした」とか「弥生時代から農耕民族に進化」 という通念がまるっきり違って、そもそもわたしたちの方が遅れている文化人ならどうか?

 

日本では、

 

弥生人という「外国人」が稲作・農耕などの

技術と文明をもたらして

急速に古代日本の文化の発達をさせた

というような情報が通説

 

とされる。 

 

つまり、現在までの日本の義務教育では、

渡来してきた人々が「外国」からやってきて

文明を発達、促進させてきたという。

 

あくまで「外国人が文化をもたらし発達させた」という方向で日本の歴史が教えられている。

 

しかし、縄文土器から「米粒」が出土されていたりするという。 

 

ということは「稲作は弥生人がもたらした」というのは違った。 

 

縄文時代に、古代の日本人たちは、丸木舟すら有していたということについて、さまざまな出土品からの解明も進んでいる。

 

これが意味することは縄文人は「海洋技術」ももっていた事になる。 

 

このことから瞬時に筆者の頭をよぎったことはこうである。

 

万が一、今まで「外国人」と教え込まれていた古代人たちは

縄文時代の九州地方の大噴火」によって

その地に住めなくなり海の外へ避難していた

 

古代日本人

 

だったのなのならどうだろうか?

 

大隅海峡が発祥地となった鬼界カルデラ大噴火については

教科書では習った覚えがないのだが、

縄文時代には九州地方は壊滅状態に陥る大噴火があった。

 

(さらに縄文進出という海底上昇、

つまり海がせまってくる状況もあった)

 

鹿児島の南方約40㎞に位置する鬼界カルデラ

大隅海峡に存在する火山)

おおよそ約7300年前に大噴火が起こり

大量の降下軽石火砕流噴火の後に

南北13㎞、東西20㎞に及ぶ「カルデラ」として

形成されたという。

 

つまり、大噴火が約7300年前に起こったりしていて、

それに対し、丸木舟造りの縄文海洋技術は国内最古約7500年前である。

つまり「既に」もう舟で災害を逃れたり、海外に避難することは可能。

このことの詳しくはのちに書こうと思う。

 

なので、古代日本の不安定な火山活動と地殻変動の中で、

もともと縄文人たちが有していた丸木舟」の技術によって、

逃れ逃れ、うまく暮らしていたのではないか?

 

そこで海外に渡ったりしていた「古代日本人」は

もちろん存在することは「可能」となるのでないか。

むしろ、それを得意としたのではないか。

 

もしも、今まで「外国人」と教えられてきた人々が

地殻変動や天変地異の影響で移動した「古代日本人」であり

海の外から『帰還したした古代日本人』なのならば?

その考えも可能である。

 

ということは、

 

竹内文書」をはじめとした多くの古文書で語られた

古代日本人が世界を往来していた」という記述については

その『正当性』が十分に出てきたりもする

 

と、筆者は考えたりしている。

 

 

そして、

 

今までの縄文人=原始人的な概念はどんどん覆されるだろう。 

縄文時代はもっと高度な文明や技術を有していた可能性は高まる。 

 

これは日本国内だけでなく海外からも多く指摘なされている。 

日本は現在に既知される歴史よりも「古い」歴史を必ず持っている。

そして、もっと高度な世界があった事を予測している。

 

日本の縄文人たちは少なくても

 

「農耕」のみでなく「海洋技術」

 

も持った。

 

縄文時代には既に「丸木舟」を使って「海を渡っていた」という出土

 

があったのだ。 

 

 

今回は縄文時代とはのキーワードの中から「丸木舟」について記しておく。 

 

下記は千葉県から出土した「縄文時代の丸木舟」の情報である。 

千葉県市川市貝塚主体の「雷下遺跡」で発掘調査が行われ出土したもの。

 

雷下遺跡遺跡からは国内で最古約7500年前の丸木舟

多量の木製品、貯蔵穴の木の実などが出土した。

 

縄文時代の丸木舟は全国約160艘(そう)発見されるが

千葉県は全国最多の60艘が出土していた。

 

さらに国内最古約7500年前の丸木舟が発見された。

国内最古約7500年前の丸木舟ムクノキをくりぬいている。

 

全長約7.2メートル、幅約50センチ、

厚み船底部約8センチほどだと発表なされている。

 

これまで最古とされてきたのは、

島根県松江市で発掘された約7000年前のもの

千葉日報が報じる。

 

雷下遺跡の概要 リンク

 

情報として千葉県の公式ページをリンクして参照させて頂く。 

さらに縄文丸木舟を展示する横須賀自然・人文博物館のリンクも貼らせて頂く。 

つまりこの縄文の丸木舟とは一か所でなく複数発見されている

 

報道:千葉日報

 市川、国内最古の丸木舟 7500年前、魚介類など運搬 雷下遺跡 | 千葉日報オンライン

 

千葉県公式ページ 担当 所属課室:教育振興部文化財課指定文化財班  

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p181-001.html 

www.pref.chiba.lg.jp

 

横須賀自然・人文博物館 

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/exinfo/jinbun-map/floor-1/jinbun-9 

www.museum.yokosuka.kanagawa.jp

 

 

さらにこれによって「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」が

国立科学博物館人類史研究グループによって行われた。

 

「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」報告会見 

プロジェクト代表 海部陽介国立科学博物館人類史研究グループ長

www.youtube.com

 

<上記からの引用・参照> 

 

◇縄文丸木舟の造りと用途

 

ポイント:

発見される丸木舟のほとんどが

4000年~3000年前の縄文後期から晩期の舟

国内最古は約7500年前のムクノキ製

である。

 

 

”1本の木をくり抜いて作った舟を丸木舟とよぶ。 

材質はカヤ・イヌガヤなどが使われるが、 

堅くて緻密な素材が丸木舟に適していたと考えられる。 

 

栗山川周辺は、もともと内湾であったのが、 

現在の海岸線沿いに砂洲が発達し、 

外海からは締め切られ、 

淡水化して湿地として残されてきた。 

そのため、この周辺から、

丸木舟をはじめとする木製品や自然遺物

数多く発見される。 

 

この丸木舟は、昭和30年(1955年)の発掘調査によって、 

水田下約1.4mの泥炭層から出土したもので、 

長さ4.35m、幅43cmを測り、いわゆる鰹節形をしている。 

 

材質はカヤで、同時に出土した櫂(かい)はイヌガヤ製である。 

櫂は、板材を使用したもので、 

丸木舟に、櫂を取り付ける構造が見られないことから、 

手に持って漕いだものと考えられている。 

 

一緒に出土した土器から、 

この丸木舟は今から約4,000年前の縄文時代後期のもの 

と推定されている。 

 

陸上交通に比べ、多くのものや重いものを 

遠くまで速く運べるという点で、 

丸木舟は縄文時代の重要な交通・運搬手段であった。 

当時の人々は丸木舟を盛んに利用していたと考えられる。 ”

 

(千葉県公式ページ考古資料:県指定有形文化財昭和32年1月17日指定) 

 

 

横須賀市久里浜9丁目伝福寺裏遺跡(でんぷくじうらいせき)から出土した

縄文時代前期末葉~中期初頭頃の丸木舟です。

ムクノキ製で、現存長304.0㎝と国内最小クラスです。

その規模から、沿岸での漁撈活動(ぎょろうかつどう)

使われていたものと考えられています。 
また、同遺跡には

東北南部から畿内地方までにおよぶ広範囲の土器

が運び込まれていることが確認されています。  

 

(横須賀自然・人文博物館) 

 

  

昨今、

日本人が日本人の「ルーツ」を解明することに

興味をもって注視する時代になった。  

これには同じく世界も興味をもっている。 

 

日本の古代歴史については世界が興味を抱いている。  

この理由は「人類歴史」に関わることであるからである。

だから、この研究は重要なのである。

 

しかし、一方で、古代日本のルーツは解き明かされる事が  

まるで不都合だとする団体も存在しているかのように、 

悉く古代日本の研究と発表は抑圧されてきた。 

神代文字(じんだいもじ)』などがそうであった。

 

さらに、日本には天皇中心の国家を築く方針の中で、

国家の言い伝えを統一していく為に

歴史が作り直しをされていたりし、

その過程で消えていったしまった本当の歴史

もあると思う。

 

古代日本の本当の歴史を明かそうとすると、 

常時、それは認められず、偽または仮説とだけ

にされた。  

 

人間は一度信じ込んだものが覆されそうなとき

まずそれらを「批判」する。

これは人間心理なのだろうか。

一度「検証」してみる価値があることだと思う。

 

しかし、昨今は、

自発的に日本人達じたいが本当の歴史や自分たちのルーツを

「探る」という時代となり、

歴史上の事実をしっかり受け止めて「自覚」するようになった。 

だからこそ、多くの力で「検証・解明」がなされる。

 

それがあってこそで「わたしたち」の真実が明らかになっていく。

だから、さらに、少しでも多くの人達が、

隠れている真実にいろいろと気づいてくれるといいと思う。 

 

古代日本の本当の歴史を明らかにする事が 

すべての世界に繋がるという

 

「自覚」

 

を、もっと持てるといいと思う。